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和田小太郎義盛と巴御前
そして朝日奈三郎義秀
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粟津の軍終わりて後、物具脱ぎ捨て、小袖装束して信濃に下り、女房、公達に
かくと語り、互いに袖をぞ絞りける。世静って右大将家より召されければ、巴
即ち鎌倉へ参る 「源平盛衰記」
木曽義仲が源義経に討たれた粟津の戦ののち巴は信濃に落ちるのですが
信濃に落ちてから巴は鎌倉に参った、というのです。
さて鎌倉では明日いよいよ巴の首を切る、という事になったとき、和田義盛が
巴をみて妻にしたいと思いました、そこで和田義盛は巴を預かりたい、と
鎌倉に申し出ました、鎌倉では女だと云ってもいずれは敵として戦った女だから
必ず隙を狙うに違いない、義盛の申し出は叶えられないということになったが、
義盛の幕府での権力と信頼をもとに、巴は無双の剛の者であるからこのような
女に子種を継がせて君に奉公したいと申し出て、妻にする許しを得ました。
「事の景気も尋常也、心の剛も無双也、あの様の種を継がせばや」
と思い、巴の身柄を申し預かり妻とすることを頼朝に申し出たら
「女なればとて心許し有るまじ、正しき主親が敵也、去剛の者なれば隙もあらば伺思
心有らん、叶まじ」
その後 巴は和田義盛の三男となる男の子を産みました。この男の子は名を
朝日奈三郎「朝比奈三郎」義秀
といって、鎌倉に並ぶ者のいない剛勇無双の武者になりました。「鎌倉の7つの切り通しの
一つの朝比奈の切り通しでも知られています」
建保元年和田一族が幕府に反乱を起こしたとき「反乱を起こしたのは
北条氏のしかけた罠によるものですが、またこの和田合戦は別コーナーで詳述します」
朝日奈三郎義秀は父義盛とともに幕府に乱入し、一族中もっとも奮戦しました。
この和田合戦は吾妻鏡に明記されていて、事実ですが
源平盛衰記ではこの戦で義秀は討たれ、巴はなくなく越中に越えて尼になって
91歳まで生きたと記されています。そして源平盛衰記には義秀は巴の子
としてありますが、吾妻鏡には義秀は和田義盛の子とは記してありますが
巴の子とはしてありません、また建保の乱「和田合戦」の義秀の戦闘の記述はかなり
詳細にかかれていますが和田一族は由比ヶ浜に追いつめられて義秀他
一族全滅と記されています。
しかしよりいっそう信憑性の高い吾妻鏡には義秀はじめ一族の何人かの者が
由比ヶ浜から舟で鎌倉を脱出、行方がわからなくなったと記しています。
この建保の乱のなかに巴の名は出てきませんし、源平盛衰記に記されている
義秀の年齢がこのとき38歳だったとなっていますから、建保元年から
逆算してみると安元元年になります、この暗影元年は巴の生年から数えると
巴は18歳で義仲の挙兵の5年も前の事ですから、この源平盛衰記の義秀の年齢だけを
見れば義秀は巴の子というのはまずあり得ませんが、吾妻鏡や源平盛衰記以外にも
記録はあり、義秀の年齢にも異説はあります。
ただ、義仲の敵である鎌倉の御家人の妻になる事は巴の正確からして疑問はのこりますが
朝日奈三郎義秀は正治二年九月二日 将軍源頼家の前で水中に潜って鮫三匹を
生け捕りにし、さらに兄常盛と相撲を取るなど鎌倉武士のなかでも無双の大力で知られた
人物でありました。そして鎌倉から六浦への通路である朝比奈切り通しは
朝比奈義秀が一夜にして切り開いたとの伝説があります「本当は仁治二年五月に
北条泰時が自ら監督して作らせたものですが」
このように義秀は巴の大力
継いだ者として伝えられています。
源平盛衰記にも「母が力を継ぎたりけるにや、剛も力も双なしとぞ聞こえける」
とあります。
そしてその後の朝日奈三郎義秀の消息を伝えるものが木曽の伝承として「三浦太夫」
説として、宝暦7年に尾張藩の松平秀雲の著した「吉蘇志略」の三浦山の記述のなかで
三浦太夫宅三浦山中に在り、里老相伝、和田合戦の時、其族逃れここに居る
開墾を業となす、其の後地僻なるを以て滝越に移る。今に至る「中略」
和田義盛戦い敗れ首を授けた時、諸子弟之に死す、朝日奈三郎義秀
亡命終わるところを知らず、義秀の母則ち木曽兼遠の娘、而して義秀は
其の外孫也。
そして現在も長野県木曽郡王滝村滝越に三浦太夫朝日奈義秀のお墓があります。
そして三浦一族側の記録として三浦古尋録満昌寺伝の岩戸村の項には
義盛 巴 義秀 の塚があるむねの記録があります、それは「古文書の部屋」
を参照してください、他に巴の形見の文もあります。
次に「鎌倉恋便り」のBanBanさんがお仕事で現地に入られての
取材と別項田谷の洞窟の事で三浦太夫の事を書かれていますのでお許しを頂き下記に引用します。
一週間ほど仕事の関係で長野県・木曽福島の奥地へ行ってきました。
場所は滝越の奥、国有地林内の関西電力(株)の三浦発電所ダム。
ここから岐阜県側は車両通行止めという木曽・御嶽山の麓で秘境のような場所。
小生はここで驚くべき伝説と遭遇したのでした。
気になっていた三浦というこの地名・・・それにはやはりいわれがありました。
鎌倉時代は鎌倉幕府の有力ご家人として、また室町から戦国時代には
神奈川県の三浦半島を中心に勢力を誇った豪族、三浦氏が存在していました。
ここで簡単に三浦一族のご説明をしましょう。
前九年(1051〜62)・後三年の役(1083〜87)源氏に従い三浦の地を与えられた
三浦氏は、義明の代で大介を称し以後三浦氏嫡流は三浦介を称するようになります。
1180(治承4)年・源頼朝挙兵に協力、小坪合戦・衣笠合戦で平家と激戦、衣笠城で
義明が戦死するなど活躍。頼朝は、三浦一族である和田義盛を初代侍所別当に任命
するなど厚遇し鎌倉幕府の有力ご家人として重きをなしました。やがて、執権北条氏
との対立が激化し、宝治合戦(1247)で三浦一族は北条氏によって滅ぼされました。
しかし、一族の佐原盛時が北条氏に味方したため、かろうじて三浦介は引き継がれ
ました。小さくなった三浦半島の所領でしだいに勢力は弱まり三浦時高の養子道寸
(義同)は小田原の北条早雲と対立。ついに1516(永正13)油壺の新井城で早雲に
倒され、ここに再び三浦一族は滅亡したこととなっています。 ところが・・・
三浦氏は木曽・御嶽山の麓・滝越の奥地で生き残っていたらしいのです。
これにはいくつか説があり残念ながら事実は明確になっておりませんが、この地には
当時「三浦太夫」という者が存在していました。その中のひとつの説をお話しましょう。
侍所別当だった和田義盛一族は和田合戦(1213)で子兄弟共々滅亡してしますが、
義盛の三男、朝比奈三郎泰秀は信州の木曽に逃げたという記録が残っています。
これには裏付けがあり、朝比奈三郎泰秀の母・巴御前はもともと木曽義仲の妻であり、
巴は義仲の死後、義盛と夫婦になっています。巴は木曽兼遠の娘であったため
母の故郷であり、地理に精通している木曽の地へ落ちてきたと考えられるのです。
「三浦太夫」は泰秀であると、鎌倉幕府の公的記録である「吾妻鏡」にも残っています。
「吾妻鏡」は、北条氏寄りの部分が時折見られますが、全体として事実関係は正確で
政治史の研究、幕府のあった頃の鎌倉を知る記録としても大変な史料とされています。
三浦発電所ダムが計画されたのは戦前の昭和7年。昭和10年にはダム工事現場から
埋もれていた日本刀16本が発見され、地元で話題を呼んだりしたそうです。
今「三浦太夫」伝説の地である三浦はダムの湖底に沈み、伝説の関係者とも考え
られるその地の人々は、三浦ダムから車で30分ほど下った滝越村にいられます。
三浦ダムは敗戦の色濃くなった昭和20年1月に大同電力によって発電を開始し、
現在は関西電力(株)木曽電力所の管轄において運転されている歴史あるダムです。
「三浦太夫」伝説は歴史に埋もれ、秘境三浦ダムのみが事実を知っているのでしょう。
いずれにしても小生としては、神奈川県から遙か離れた木曽福島にて鎌倉幕府と
関係した話を耳に挟むとは思ってもみなかったことであり、この Designer's note
を通して、少しでも皆さんにご紹介してみようと思った次第でありました。
3月の三浦発電所ダム全景
小生にとって田谷の洞窟は10代の頃から何回となく訪れ慣れ親しんだ場所でした。
このホームページの中でいつご紹介しようかとずっと考えていましたが、本来であれば取材には欠かせない洞内彫刻物をお見せしたいと思っても、本文内で記載しましたように洞窟内の写真撮影が禁止されておりその取材方法に悩んでおりました。
今回、思い切ってご紹介に取り上げましたのは朝比奈三郎との繋がりを知ったからでした。田谷の洞窟
文中でも記載しましたように、和田合戦 (1213)で和田義盛一族(三浦一族)の敗北の色が濃くなると三郎は手勢をまとめて何処かへ姿をくらませたといいます。小生はこの話し知ったときに”はっ”とするものがありました。1年半前、小生は仕事で木曽福島の国有林地内へ一週間ほどこもっていました。岐阜側は車両通行止めという御嶽山の麓で秘境のような場所。
実はここで義盛の三男、朝比奈三郎泰秀のことを記した古書からの写しを読んだのでした。たまたま手に取った「三浦」の土地に関する書物にその内容は詳しく記載されておりました。戦前ダム建設現場から日本刀16本が発掘されるなど、その内容は「鎌倉恋便り」を運営している小生には感動的な衝撃があったのを覚えています。
取材中、三郎が洞窟最深部、厄除大師の奥に続く穴より脱出した話を知り、伝説とはいえ朝比奈三郎泰秀の生涯の概略がわかった気になりました。木曽福島に落ちた「三浦太夫」は三郎泰秀であると、鎌倉幕府の公的記録である「吾妻鏡」にも残っています。毎回のように記載していますが、やはり鎌倉は、探訪しながら謎解きを楽しめる古都であるとあらためて感じた今回の「田谷の洞窟」取材でありました。
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