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もう一人の義経
源義経の部屋・ホーム
源九郎義経と同時期に生きたもう一人の義経をみなさんはご存じですか。
彼の名は山本義経。近江の国を拠点にいち早く反平氏ののろしを上げた近江源氏の一流です。
新羅三郎義光の五代の孫といわれます。源九郎義経が鎌倉にいた頃、こちらの方の義経は
近江の国を中心に今でいうゲリラ戦を展開していました。
京都の平氏にとってはこの義経こそまことに小うるさい存在でした。
かつてこの二人が同一人物であるという説もありましたが、もちろん別人です。
しかしその同一人物説の根拠として、東鑑「吾妻鑑」の記述として初めて九郎義経が登場してから
その後三年間に渡り記述は二カ所そしてそれ以後二年間の空白を経て突然木曽義仲の追討使として
上洛したと記されます。
それ以降の華々しい活躍が伝わる以外は彼の武将としての姿は謎多いのです
そして何よりも子供の頃には鞍馬山中に育ち青年期には奥州平泉に居たことを考えれば
平家との合戦の舞台になった近畿や西国の地理など知るはずもありません。
また九郎義経の持ち味である奇襲攻撃のゲリラ戦法や海戦で見せた戦法など九郎義経にはまったく
経験の無いはずの戦いにおいて、はたしてあのような経験と知識に裏打ちされた大胆で精緻な
戦法を駆使できるのでしょうか。
しかし、ここにもう一人、九郎義経が兄頼朝と対面したとされる日からちょうど一月後
の治承四年十一月二十一日にもう一人の義経が近江で反平家ののろしを上げました。
このもう一人の義経を重ね合わせることにより戦の天才、稀代の英雄義経が完成するのです。
近江でゲリラ戦法を展開していた山本義経は歴戦の強者です。そして琵琶湖での水軍としての
戦いも経験しています。
そのように十分な経験と知識を持ち合わせているのです。
玉葉に「巷にいう。近江国またもって逆賊に属しおわんぬ。前幕下の郎従、伊勢国に下向の間
勢多及び野地等の辺において、昨今両日の間に十余人梟首おわんぬ。その中に飛弾守景家の姪男あり、伐たれ
おわんぬと云云 。甲賀入道ならびに山下兵衛尉等張本たりと云云。」
さらに「また聞く近江の国あわせて、一統おわんぬ。水海東西船等ことごとく東岸に着きまた雑船、筏等をもって
勢多浮橋を渡りおわんぬ。およそ北陸道運上物ことごとくもって点取りおわんぬ。大津の辺、人家騒逃、およそ
鼓動きわまりなしと云云。・・・・・」
以仁王の令旨を奉じ、遙かに源頼朝に応じて挙兵した山本義経のゲリラ戦によって琵琶湖という
港の要衝を押さえられて地方からの運上物が途絶えるという大打撃をうけた平家は、山本義経軍が
延暦寺の衆徒と結んで京都進行を企てているとの噂を伝え聞き追討の大軍を組織しました。
この辺りは玉葉に記されていますが十二月二日平家の勇将、平知盛を総大将に三千余騎が京を出発し、
勢多「瀬田」の対岸に布陣。翌三日払暁、近江八幡の馬淵城に拠る山本義経が兵力の分散は不利だとして
勢多の守備兵を草津の矢倉城まで後退させるに及んで戦闘開始。知盛率いる平家軍は勢多、野地「野路」辺りの
民家に火を放ち難なく矢倉城を攻略しました。
そのうち、比叡山延暦寺の衆徒三、四百人が三井寺の衆徒とと共に山本義経と呼応し、三井寺を拠点に
方や手薄になった平家の本拠、六波羅に夜討ちを仕掛け方や、知盛軍の背後を突こうとします。
これにより知盛軍は進軍出来ず山本義経軍とにらみ合いが続きました。
しかし十二月十一日平家の援軍が京を出陣、三井寺を攻略すると知盛軍が進軍を開始しました
十三日、馬淵城が陥落、山本義経軍千余騎の内、二百人以上が梟首、四十数人が捕虜になりました。
しかたなく残兵は本拠地の湖北の山本城まで撤退します、そして近傍の一族郎党を集め体勢
を立て直し最後の一戦を試みましたが平家軍の猛攻により十二月十六日山本義経軍は壊滅しました。
しかし、この時総大将の山本義経はいち早く戦場を離脱し鎌倉に逃れました。
その後、鎌倉で頼朝に拝謁しましたがその後2年半に渡り消息は伝わっていません。
そして木曽義仲が平家軍と対決する辺りで再び登場してきますがこの2年半の間、
九郎義経の消息も不明なのです。
また山本義経が記録から消えると九郎義経が記録に登場したりもします。
この辺りをもっての同一人物説なのですが年齢やその場所に現れたアリバイ、その他記録上の
状況証拠でどうしても無理があり否定する他は有りません。
また義経には美男子説と醜男説の二つがありそれぞれの肖像画が有ることも有名ですが
この全く違った肖像がそれぞれの義経を元に後世描かれたものだとしたら・・・
また、寿永二年五月倶利伽羅峠に平家の大軍を破った木曽義仲の軍に山本義経が付き従い京に入ったときには
市内の警備責任者の一人に抜擢されています。そのような事が
江戸時代に近江源氏の一族が著した「近江志新開略記」に載っています
ですから、この同一人物説を単なる史実関係での誤解と考えないで、変革期に生きた二人の義経という視点から
これを考える事が必要だと思います。同じ時期に活躍した義経が担った役割といった点から考えれば
この山本義経の方があるいは大きかったのかもしれません。「初めて記録に現れたときには
九郎義経は無官位であったのに対し山本義経は兵衛尉という官職ももっていました」
このほとんど無名の義経とあまりにも有名な義経との落差はどこにあるのでしょうか。
伝説を作り出せなかった無名の義経は源九郎義経よりはるかに土臭い存在であったのでしょう。
この土臭さは畿内周辺に出没して土民や民衆と深く結びついた存在のあり方にあるのでしょうか。
反平氏の包囲網が展開される上で、この山本義経を中心とする近江源氏一党の活躍は、確かにめざましい
ものでした。彼が初めて記録に現れるのは「玉葉」に根本中堂衆を殺害したとの訴えにより佐渡に配流に
なったと記録されています。「比叡山延暦寺根本中堂の下僕を殺めたとの平家の讒言にあい二年あまり佐渡に
流されていました」
その後勅免を得て近江宇津郷山本に帰った義経は、治承四年五月の以仁王・頼政の挙兵には
一族を上げて参加して延暦寺・興福寺との共同戦線により平氏の軍勢を悩ませました。その意味では
この山本義経は畿内周辺での内乱の火付け約の一人でもありました。そしてその義経が鎌倉にやってきます。
治承四年十二月十日のことでした。近江で平氏の大軍に敗北して嘉間良入りした彼を「吾妻鏡」は
「度を失って逃亡す」と冷ややかに書いています。この時、白い顔の源九郎義経も当然鎌倉にいたはずで
真っ黒に日焼けしたしたであろうこの年上の義経をどのような態度で見たのか知る由もありませんが。
その後鎌倉を離れた山本義経は前述したように後墨俣合戦に参加、木曽義仲の軍門に入ったと伝えられていますから
後の戦で源九郎義経と向かい合って戦ったのかもしれません。
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