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和田
軍記 鎌倉見聞志三篇 第五
目録
一 将軍尼公の再吟を歎給ふ事
并廣元朝臣籠居之事
一 尼御台所廣元の罪御免之事
并廣元和田左衛門尉か誠忠を述る事
和田
軍記 鎌倉見聞志三篇 第五
将軍家尼公の再吟を歎き給ふ事
并廣元朝臣籠居之事
大膳大夫廣元朝臣和田左衛門尉か忠臣をかんじ、歎状を
事なく申下さんと、翌日御所に参向して将軍の御前に出、
和田左衛門尉上総の国司一旦所望仕るといへとも、退ひ
て思慮を廻らし候に、誠に過分の望ミなりし故、今更身
の程を顧みて所望の念を相止候上ハ、先達て差上置たる
歎状を返し下さるやうにと先非を悔むの願ひに候と言上
せしかハ、将軍聞し召、此義ハ先規なしといへとも、義
盛か異なる功労あるかゆへに、所望に任する了簡なれと
も、かの国ハ武家のまヽにならざる所故、一応奏聞をへ、
其上にて免許せんとおもひ居る所に、今更望を止しとハ
心得す、少児のたハむれ同前に一旦ハしきりに所望し、
月日過てハ望なしとの事、吹挙延引を待かねての事なる
やと仰けれハ、廣元承り、それかしもはしめさやうに存
せしゆへ、つふさに心底を承り候所に、全く延引の故に
もあらす、後悔のあまり歎状を申請給ハらんと願ひ候事
相違なく候なり、不審に存しなはいかてか披露を致さん
や、実に忠にこつたる老臣にて候へハ、速に歎状を返し
遣わされ然るへしと存し奉ると執なし申けれハ、将軍尤
と思し召れ、廣元の執奏越度有べきやうなしとて再ひた
つね給ふ義もなく、早速に歎状を返し下されしかハ、廣
元是を持て帰宅し、直さま義盛を招き将軍の上意御疎意
あらざるよしを物語、歎状を相渡しけれハ、義盛大ひに
よろこひ、偏に足下のとりなし故事なく返し下さるヽ所
なり、此うへハまた何事をか望むへきや、只日来談し申
通り静謐の計略より外におもふ子細なしと申にそ、廣元
も早速返し玉ハりしも其元の誠忠故なりと互に悦ひ、義
盛ハ宿所に帰りける、
然るに北条義時是を聞、尼公の御所に来り、和田左衛門
尉義盛上総の国司を所望の事数度上聞に達すといへとも、
大切の事ゆへ御賢慮の上とあつて延引するの所に、義盛
是を憤り、所望御免なりかたき事ならハ歎状を返し下さ
るへしと無体に願ひいたせしに、将軍御思慮にも及ハず、
早速歎状を返し遣ハされたるヽよし、是ハ義盛将軍の御
若年をあなとり軽んしおもふ心より、一旦差上たる歎状
を我侭に返しくれなどヽ傍若無人のふるまひにて候、是
を事なく返されるハ将軍御若気と存し奉る、義盛も又身
にかへて所望せし義を、にハかに歎状を返しくれと申に
はかならす子細候ハん、左ハなくとも義盛公儀を自由に
計りなんと吹聴せは、将軍の御威勢なきに似たり、一応
おたつね有て然るへしと言上す、尼公甚た御立腹あつて、
義盛何者なれハ我を斯まてあなとるや、彼か願ひの事ハ
将軍より尋ねこさるヽにより、右大将軍の御時、御家人
受領におゐてハ停止すへきむね仰出されしゆへ、其趣意
を返答せし所に、なをもしゐて所望をするよし不届なり
とおもひしかとも、老臣といひ長々の寸功にめんじ、其
まヽに差置き、剰へ歎状を止め、評義のうへいかやうと
もと申渡、我計らひなるにひまとるを遺恨にて、我侭の
ねかひするさへあるに此方へ一応の断りもなく、若年の
将軍をすかして歎状を再ひ返せし事、言語同断の所為な
りと詈り玉ひ、即時に将軍の御元へ御使を立られ、義盛
か歎状何ゆへに返し遣され候哉、何ものか執奏いたせし
そや、此義ハ私にすへき事にあらす、将軍の御威勢を失
する道理なれハ、容易に返し遣ハされへき所にあらすな
と、一応の御使を遣わされざるやと、以の外のいかりの
口上なりしかハ、将軍のたまひけるハ、母公の仰ニて候
へとも、義盛国司の任を望ミし事、自ら過たるをかへり
ミて所望の事をひるかへし、此うへハ歎状を返しくれよ
と廣元について、願ひ一旦ハ難し申せしかど、後悔の至
り子細なしと廣元是を申により異儀なく返しあたへ候、
邪正を弁ざるにハ候ハず、願ふも人により執奏も人によ
り候ハんよし、義盛是迄功名あれ共誤りなし、廣元ハ又
篤実の仁なり、本人を咎めんとせハ、先取次の者を糺す
へき事にて候、廣元申次ニて子細なしと申うへハ、又何
を咎め申へき、善悪ハ明に存し候ゆへ早速計らひ遣ハし
候、尤母公へ伺ひ申へくれとも、左なから明白なる義を
訴へ申さんも、御老心を動し奉らん事不孝に似たりとわ
ざと伺ひ申さぬ所に、いかヾ上聞に達しぬるや、不慮の
御尋に預り恐れ存候なり、猶思召も候ハヽ廣元に御尋ね
下さるべしと御返答あり、尼公これを御聞あつて、さし
も手つよく仰遣わされしかど、将軍の御返答簾直なれハ、
何とも仰るヽ義なく義時をめして談合せらる、義時いわ
く、廣元に於てそこつハあるましく候へとも、元来篤実
の人故他人の申事を実とおもひ、義盛か老弁にあさむか
れ執奏致せしものならんか、一応召れて御聞あるへしと
すヽめける故、尼公是にしたがひ廣元を招き給ふ事、将
軍是を御聞有て御涙をうかめ給ひ、我たまく将軍の家
に生れ、今其職に補せられ、一言をもつて四海を治る身
也、年もすでに廿にミてんとす、然るに我一旦免るせし
事を母公再ひ是を改め給ふ事情なき御ふるまひ也、御吟
味の上させる義もなくんハ母公の御名のよごれとなるへ
し、もしまた我計らひにあやまりあつて是を改め糺さる
時は、重ねて我下知を用ゆる者なく、将軍の名も無益と
なるへし、親子の間是非一方の失となる義を弁へ給ハさ
る事うたてさよと、大ひに歎きかなしミ給ひける、
折ふし廣元参向あり、尼公より召るヽよしを言上せられ
けるに、将軍御愁歎の躰に見へさせ給ひしかハ、廣元お
どろき御機嫌いかヾと窺ひ申さる、将軍始終の訳を仰聞
られ御落涙ありけるにそ、廣元承り、将軍の仁孝をかん
じ、ともに愁涙を催し、しハらく答へも申されさりしか、
つくく心におもひけるハ、将軍の仰のことく我尼公の
御前にて御尋ね有るの時、利非明白に申せば将軍の上意
ハ立ども尼公の方立す、されハとて利を非に曲るは義盛
の罪也、一向口をとぢていわさる時ハ将軍の失となり、
まことに難義の糺問に出合しものかな、利なれとも述る
ことあたわす、黙して屈する事もならす、賤山がつの九
十九髪いふにいわれすとくに解れす次第なりと思ひに困
窮せられしか、将軍の御心中をはかり、孝行のおほし召
を感し奉り、我身に罪を引請、善悪ともに述ざるにハし
かじと思案をきハめ、何気なく御前にむかひ御上意の趣
重々御尤至極に存し奉るなり、さりなから御賢慮安く思
し召下さるへし、双方ぶじの計らひつかまつらんと言上
して御前を退き、尼公の御所に参り局を以申上遣るハ、
御召に依参上仕るといへとも、御前へ推参の義有によつ
て、今日に於てハ罪人の廣元、其おそれあれハ執奏を以
言上仕るなり、召るヽ義ハ定て義盛か歎状の返し遣ハす
の義を糺問し玉ふ事ならんと存し、今更我身の罪を覚へ
候、尼公へ御伺ひ申へきを伺ハさりしハ某かあやまり、
義盛ハ始より某について願ひ候へハ、当御所へハ憚りあ
るか故参るへきやうなし、将軍にハ又某か申次に候ゆへ、
尼公へハ御伺ひの上と思召され御届に及ハすと存奉り、
不念のあやまり発して、一旦将軍の命下りし義を再ひ御
糺明下されん事、万一将軍家の御失のやうにもおほし召
下されてハ大ひに恐れ多く、某か身の立所を失ひ、罪を
まぬかるヽに所なく候、此身ハいかになると申ともくる
しからす候へども、上さまの御名を出し奉らん事の疑ハ
しく候へハ、御糺明の義を廣元かあやまりニて落着なし
下され候や偏に願ひ奉る、誠に御伺ひを失せし段、某が
罪数少からす、是によつて直さま宿所に籠居仕り、御下
知を待奉る、罪科を糺され政道につゐて御咎を蒙り奉る
べきにて候と言上して退出あり、門戸を閉て籠居せられ
けるにそ、尼公此訴へを御聞あつて、先廣元を召寄よと
局にめいじ給ひしかハ、はや宿所に帰りしゆへ、使を遣
ハされけるに、形のごとく門を閉て有しかハ、此趣申上
けるに、尼公大ひにおとろき玉ひ、鎌倉柱石と頼置廣元
自ら罪ありと称して籠居せしこそ心得ずとしうしやうし
て、将軍の御方へ使者をもつて此よしを仰遣ハされける、
尼御台廣元か罪免許の事
并廣元朝臣義盛か誠忠を述る事
此時将軍ハ廣元か計らひいかヽ致するやと案じ居給ふ所
へ、尼御台所より御使来り、廣元局をもつてかやうく
に訴へ、門戸をとぢて籠居し由委しき子細を存ぜす、い
かなる事にそ斯のこときや、将軍しろし召れし事あらハ、
知らせて安堵させらるへしとの御事なり、将軍御聞あつ
ておなしくおとろき玉ひ、さてハ廣元一身に罪を引受何
事も申さぬ成へし、彼を罪に落さん事冥加のほと恐ろし
けれハ、白地に申さんと思召、廣元におゐて罪科もなし、
義盛か事によつて御糺問有へきよしにて召寄らるヽ所な
らんと推量して、一旦此方より下知を加へたる義を再ひ
糺明し玉ハヽ、親子の間是非一方の失となるへしと廣元
へ物かたり候故、母公の御名も出す、我失にもならさる
やうにと心を砕き、己か身に罪を引請し所に候ハん、い
つれも忠心廣元罪せらるヽへきいわれなく候間、今の内
御使を廣元へ遣ハされ、御免の義を仰聞られ然るへきよ
しを御文にこまくと認め、母公へ送り玉ひしかハ、母
公是を御覧有てやうく御心付、此事しひて尋る時ハ将
軍の越度を吟味するに似たりと悟りたまひ、廣元の亭へ
御使者を立られ、まねきよする事全く其義をとわん為に
非す、一旦将軍の仰られ相済ぬる義をいかてか改め問ふ
へきそ、然るに廣元推量を以て自ら罪なりと称し、咎め
もなきに籠居せらるヽ条そこつなるへし、何にもせよ御
免ある間、はやく出仕せらるへしと仰遣ハされけるにそ、
廣元承り、ありかたく御上意冥加至極に存し奉候、さつ
そく出勤仕へきなれとも、御伺ひ申上ざる罪ありとそん
し、一旦閑居仕りし義に候へハ、両三日なりとも遠慮仕
さる時は、政道も立かたく候ハんか、御仁心の御使者重
々難有候へとも、御政道乱れん事のなけかハしく候間、
表向つミありと称せられ、両三日経て御免の上意を蒙り
なハ、尼公の仰も相立、全く相治り候へしと返答あり、
尼公尤とおほし召、気のどくなから遠慮仰付られけり、
将軍にも廣元わさと無実のつミを蒙り、政道を立母公を
立ての計らひ、天晴忠臣なりと御感ありけるか、元来是
ハ母公義盛を悪ませ給ふよりおこりし事なり、忠功ある
ともからを斯のことくおほし召てハ、終に国家のわさわ
ひとなるへきか、廣元出勤せハ義盛歎状を乞し事、別心
のなきむね物語らせ、母公の御心を和らけすんバ、此後
の事計りかたしと御案じあつて、三日を過て御免のよし
仰渡されしかハありかたく出勤せらる、時に将軍尼公の
御所へ入御し給ひ、母公と御同席にて義時・善信・行光
等を御前に候しめ玉ひ、廣元朝臣を御召あり、将軍宣ひ
けるハ廣元此度不時のつミを請て籠居せられし事、和田
左衛門尉か願ひ執奏のゆへなり、義盛歎状を取返しぬる
事、もしや欝憤を抱きての義ならんかと、母公是を案し
おほし召さるヽかゆへ、義盛か心底を御辺の見る所を語
らるへしとありしかば、廣元謹て承り、愚臣幕下将軍に
仕へ奉りてより已来、寸功をも立たる義御座なく候へと
も、また罪を犯せし義もなきによつて、御三代の今にい
たり恙なく奉公仕るゆへ、諸士の賢愚・忠不忠の心底あ
らかしめ存し候、就中和田左衛門尉ハ幕下の御在世に勲
功・勤労をなし、金吾将軍の御代にハ専ら政道を補佐し、
事を計るにいさヽかも私なく、簾直の行ひ第一と仕るか
ゆへ、他人の非を見てハ、小事といへとも是を糺さんと
す、依之愚智の輩ハ厳敷恐れ、自己のつミをかへりミす
却て義盛恨ミ、いろくの讒言をなす、然れともあなか
ち義盛罪をつよく行ふに非す、功有輩ハかならす賞美し
重く用ゆ、此ゆへに信義あるものハ皆義盛に帰伏仕る、
賞罰明らかなる故に候、さりなから愚ハ多く賢ハまれな
り、よつて衆愚の風聞かまひすく、此度歎状を申下せし
事を感に絶ゆるの誠忠なるより遣る事に候、始め義盛末
代家の眉目に備へんため、国司の任に所望し、生涯の願
ひなりと訴へしかとも、つくく思ふに義盛是をゆるさ
れしならハ、後々功労を申たて諸国の御家人等まて此義
を所望し、我もくと願ひ出さハことくく免されん事
もなされがたく、免許なき時ハうらミをいたきて騒動を
も引出すへきか、是義盛此職をのそミしより事発るなり、
然らハ我身の名誉を思ひ、天下のわざわゐをも思ハさる
の義に似たり、是によつて所望の念をやめ、歎状を申下
すの時ハ、諸士別当の義盛すら願ふて叶わぬ国司の任、
とてもあたハぬなりと御家人等明らめおヽもへハ、乱を
生ぜす、尤勇士のおもひ込たる義をむなしくするハ本意
にあらすといへとも、君のため天下のためにハ替かたし
との了簡にて、恥辱を厭ハす所望を捨て候なり、誠に忠
義をおもへハこそ此義に及ふ、古今ためしなき忠臣なる
を、衆愚のとりさた浮説をなすにより、上にも事につひ
てハ疑ハせ給ふ義もありと存し奉る、斯る忠義の士なれ
ば、君の御もてなしの善悪によって世を見すつるものに
て候へハ、能々御懇請を垂つるハさるへき事肝要に候ハ
んと諫言かたく物語をせられけるにそ、将軍元来邪正
を知し召れし事ならハ、廣元か諫大ひに感し給ひける、
尼公も廣元か申さるヽを尤なりと思めしなから、君の為
天下の為をおもふハ人臣の常なり、義盛にかきるへから
すと仰けるこそ是非なけれ、
鎌倉見聞志三篇 第五終
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