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和田
軍記 鎌倉見聞志三篇 第四
目録
一 義盛公暁を誅せんと謀る事
并三浦義村義盛と不快之事
一 和田左衛門尉歎状を申下す事
并廣元朝臣義盛か誠忠を感する事
和田
軍記 鎌倉見聞志三篇 第四
義盛公暁を誅せんと謀る事
并三浦義村義盛と不快之事
善哉丸出家有て禅師公暁と改め仏門に入給ふといへとも、
其心武門をはなれす偏に父君の業を継の気有り、和田義
盛壱人是を知かゆへに、後難をおもひ遠く退けんと廣元
にすヽめて諫言を奉りしかハ、尼公公暁の心底ハ知り給
ハす、たヽ受戒の為とて上洛させらるヽといへとも、義
盛尼公の御心を察し、再ひ呼返さるヽハ公暁の悪心増長
してわざわひを引出さん事必定なりとおもひしかは、い
かにもして後患の根をのぞき天下の太平を計らんと、君
のために身心を労し、忠義に肺肝を砕きしかども、我身
ハ諸士別当にして鎌倉を離れる事あたわす、余人につけ
て謀事をなさんと欲すれども、万々一中途にして洩るヽ
時ハ忠臣却て仇となり、身のわざわひを引出すハ必定な
りと遠慮を廻らし、とやかくと案し煩ひしか、風とおも
ひ付候事あり、公暁の御乳母の夫ハ三浦平六兵衛尉義村
成かゆへ、かれに謀事を行ハせんと、則義村を招きよせ
密に申けるハ、我今君の為に愁をのそき、天下の為にわ
さわゐを払ハんとほつして肺肝をくたく、然るといへと
も自ら行ふ事不能、他人ハ行ひ得ましき事を愁ひてもた
しぬる所なり、是を計るものハ御辺ならで外になし、幸
ひ親しき一族なれハ心を置す物語るへし、将軍家の御為
に大忠の義なれハ辞退せらるヽ事なかれと有けるにそ、
義村聞て、こハ改りし仰かな、一門の棟梁たる足下の仰
といひ、君の為に忠をつくさん事、何そ辞するの道あら
んや、先子細を承り申へしと申けれハ、義盛かいわく、
別の義にあらす、此度上洛ありし禅師公暁、幼稚におわ
すれとも其志し尋常ならす、生立ハ御辺の知る所なり、
中々真実仏門に帰するの心はいさヽかもあるまし、必定
武将たらん事をのぞまるヽならん、前将軍の若君なれハ
其由緒なきにもあらすといへども、期にのそんてハ大乱
のもとひ・国家の患ひ是より大なるハなし、当時上洛せ
らるヽといへとも、成長にしたかつて大志をおもひ立ハ、
計略を廻らすの時、御家人の中にも頼家卿の好身をおも
ひ、又ハ世にうらミ有の族方人する者有まじきニもあら
す、いつれニも騒動の端ともなるへし、其うへ尼公甚た
公暁を寵愛せられ、此後鎌倉へ呼下されん事も必定なり、
然るに於てハいよく公暁の悪念生すへし、彼をおもひ
是をおもふにつゐて天下の為にハ替かたし、よろしくわ
ざわゐの根を断さらんにハしくへからす、御身ハ公暁に
由緒ある人なれハ此事を謀るに便り有り、尤便りなくハ
おもハるへけれ共、天下の安危をおもひかしきを思ひ、
計略を廻らして行ひ給へ、此義なるに於てハ、君の天下
を大山の安きに置事、皆御辺の忠臣による所なり、一族
につらなる某まていか計大悦ならん、片時も早く用意せ
られよと申けれハ、義村始終を聞て黙然として有けるが、
元来妻女ハ公暁を守り育し乳母故、其好身深けれハ、義
村飽まて公暁公を贔屓の心あり、先年鶴か岡より御所へ
召れし砌も、義村夫婦尼公の御所を吹挙し、善哉丸の能
事計をとりなし勧めて招かせし程の事故、其節義盛是を
止め、御所へ呼よせ給ふハ勿論、親しき輩を訪ひ給ふも
よろしからすと諫言せしを、義村大にうらミおもひしか
と、一門の棟梁たる義盛なれハ詞にハ出さすといへとも、
心中快からす有けるか、思ひのごとく善哉公御所に御入
有て御袴着等是あり、剰将軍の御猶子と内々定め給ひし
かハ、義村夫婦悦ひいさんて年月を送るの所に、今度俄
に尼公の御計ひとして落餝させられしかハ、案に相違の
おもひにて、妻女なとハ跡先の弁へなく、育参らせ候若
君の利発にましますを自慢して、天晴将軍に備ハり給ふ
やうにといのりしかいもなく、御出家有しゆへ本意なく
おもふの所に、受戒の為とて上洛せらるヽさへも名残お
しく、愁傷してわかれをかなしミけるにそ、義村も女に
つれてあわれを催し、再ひ帰り玉ハん事をのミおもひ居
の所に、今義盛天下の為に公暁をはかり参らせよと申ゆ
へ、ほとんと義村か心に合ずしハらく返答もせさりしか、
やヽあつて申けるハ、足下の了簡忠義をおもふての事成
へけれとも、某に於てハ不承知なり、禅師公ハ我らかヽ
しつき育参らせし事御存知の所ならずや、善悪ハともあ
れ、養育の情を抱いかでか殺害なるべきぞ、忠義に愛子
を捨るさへ、すてかたきハ養ひ育し恩愛の情あるかゆへ
なり、ましてや是ハ主君の公達なり、謀り奉らん事逆心
のふるまひならんか、然とも冶世を乱すの御企てあらハ、
事によつて勿体なくもはかり奉る義もあるへきか、十五
に満ざる小童ハ何の弁へおわすへき、生立の健なるを危
しミて、罪もなき御方を疑んハそこつなるへし、殊更出
家してましますを害し奉らハ、忽ち五逆の罪を蒙り、武
運爰にきハまるへきなり、あやまつて人を疑い候へハわ
さハひを生すとハ此事ならん、足下の遠慮甚た過たり、
義村得こそ請合ましと承知の色なく答へけれ、義盛聞て
怒れる眼になミたを浮め、おのれ義村、其方ハ三浦介義
澄か嫡男にて、右大将軍より已後忠義を失わす、将軍家
の頼に思し召さるヽの家なり、然るにかくのことく不忠
の心底をさしはさむ事、父義澄の功労も空しく、三浦の
一族ともくに汚名をとらするや、汝公暁の乳母なるを
以て此事を談する事、是ハ其方忠臣のあらん事をおもふ
ての故なり、然るに何そ計らん只今の言を発せんとハ、
汝我いふ事を能々承ハれ、公暁を謀奉る事、何の罪もな
きにとおもふハ一旦の理なれとも、義盛見定めたる所あ
るによつて、前々より諫言をも申せしなり、其方ハたヽ
養育の愛におぼれ、公暁の心底をしる事あたハす、鸞鳳
ハ卵より声諸鳥にすぐれるといへり、幼年なれハとて大
志の気さしなしといふへきか、十歳已下ハ小児ととなへ、
十歳にあまれハ筋骨かたまり強弱すてにあらハる、よの
つねの者にても五六才の時分になせし事ども、成人の後
まてもよく覚ゆるものまヽあり、況や公暁ハ生得かしこ
く心の猛き人にて、八才の時より御所に入来あり、十三
才の今年まで六ヶ年の間壮観なる営中にあつて、将軍家
の御ありさまをよく見聞せられしうへ、一旦御猶子など
と御沙汰ありしに、今更出家せらるヽとも何そ是を悦ひ
とせらるへきそ、是非営中に心の残らすハ叶ハぬ事也、
明らかに其證據をいはヽ、尼御台所御孫たるによつて、
愛に引れ御所へまねきよせ、諸人の諫を用ひず御猶子な
んどヽ寵愛せられしが、今俄に出家させられしを何ゆへ
とおもふそや、公暁御心猛く将軍の害となるへき事をお
もひ合さるヽかゆへなり、汝是をもつて思慮すへし、某
とても前将軍の公達なれハいさヽかも麁意なしといへと
も、天下の為にハかへられず、ふたはの時に刈されハ、
斧を用ゆるの患あらん事をさつして、壱人心をくるしむ
なり、右大将軍のそうくありて、天下他人の掌握とな
らん事のかなしさに、当将軍の御武運長久ならせ玉へと
おもふに付て、御後難となるへき事を見なから、のぞか
すんハ有へからすと寝食を安んぜす、此事をおもひ、一
族多き中に其方をえらミ大事を物語ける所に、所存の外
なる心底なりと口説けれハ、義村尤とハおもへとも、公
暁をはかり奉らん事、冥加のほどおそろしくとて承知せ
さりしかは、義盛重ねて汝得心せざるのうへハ、此事を
以て尼公に言上する所存なるや否や、義村聞て其元の言
に従かハぬは、禅師公への一の義理を思ふかゆへなり、
何そ女童のごとく他人に是をもらすべきぞ、妻女といへ
とも物語る所存なしと申けれハ、義盛かいわく、其言に
ちかひなくハ誠に三浦の一族といひつべし、神妙の心底
なり、もし此義外にもるヽ時ハ、汝か所為とおもふへき
そ、公暁の御事におゐてハ其方に預へきなり、おなじく
ハ諫言をくハへ、実の出家となしてこそ万全の計ならん
と詞をのこし、閑たんを止けるゆへ、義村も宿所へ帰り
けり、
和田左衛門尉歎状を申下す事
并廣元朝臣和田か誠忠を感する事
三浦平六兵衛尉義村ハ和田左衛門か密談に応ぜす、養ひ
君公暁を討奉らん事勿躰なしと一図におもひ込、のみな
らすかるく敷害せよと申義盛の心底こそ心得ね、一家
の棟梁なるによつてあなかち争ひ問すといへとも、御幼
少といひ、何のつミもなき若君を謀り候ハんとする条、
頗る不忠逆臣のふるまひなりと心に義盛をうらミ居ける
か、是よりして自然と不快のやうになり、他人にはもら
さすといへとも、独確執のおもひをなしける故、後の和
田合戦にも助けす、事にのそミ義村兄弟心をへんして北
条を助け、一族に引わかれしハらく後営をなすの所に、
義盛か申せしことく、禅師公暁鎌倉に呼戻され鶴か岡の
別当職に補せられしに、義村なおも悟り得す、却て義盛
を詈り、ぜんじ斯まて得道ましますを、義盛ミたりに害
せんと企てしハ、かれ元より野心あるかゆへなりと思ひ
居るの所に、承久元年正月廿七日、将軍実朝公鶴か岡に
御参宮有しを、禅師公暁伺ひ、よつてつゐに殺害し奉り
けり、其時直に義村を招き、将軍職にならん事を談せん
とて使者を義村か許に遣ハさる、此時に至て義村初て悟
り、義盛か先見明らかなるをかんじ、後悔しきりといへ
ともすべきやうなく、せめてハ義盛か霊に申訳の為とて、
のかれぬ公暁の命他人の手にかけまじと公暁をあさむき
寄せて射奉り、心中にて義盛か霊を祭りしとなり、扨ま
た和田左衛門尉義盛ハ、義村不承知なるによつて、迚も
急にハ謀る事成かたきをさつし、態と公暁の御身を義村
に預るなりと申置、此已後かれか心の怠らさる様に、公
暁の悪心を制止させんとの言葉なり、其上にてもしもか
まくらへ召呼れなは、其時再ひ公暁の心底をさぐり、害
心あらハ謀ことを以て誅せんものと了簡さため、しハら
く其まヽに差置けり、
義盛かひとへに忠誠をつくすといへとも尼公是をよろこ
ひ給わす、義時またさまくとこはむかゆへ、和田か忠
義ハあらわれず、却て事によつてハ義盛我意のふるまひ
をもなすやうにおもわせしかハ、いよく快よからぬ躰
なり、是によつて義盛先達て願ひ置し上総国司の事、将
軍にハ御免有へき御心なれとも、尼御台所先例なしとて
是を免さす、歎状をおさへて一向沙汰なく年月を経るゆ
へ、義盛つくく思ひミるに、迚も上くらく奸臣道に横
たわるゆへ、我願ひ叶ふへきやうなし、無益の事に思ひ、
歎状をとヽめられ後々侫賊等是を披露し、義盛こそ叶ハ
ぬ願に心を労しさし上たる歎状なんどヽ吹聴せられんこ
と口おしき次第なれハ、件の歎状を申下さんものと、や
かて廣元の亭におもむき、右のよしを物語り、何卒歎状
を返し玉ハるやう御取成下されよと頼ミけれハ、廣元お
とろき、其儀ハ先達て将軍の御前にさし出し置ぬる所に、
暫く御待あれとの事なるに、いかなれハむなしく歎状を
返しくれよとハ仰せ候ぞや、と申されけれハ、義盛にこ
つと笑ひ、別に子細ハ候ハす、能々おもひ候へハ、過分
の望に候故、身のほどをかへりみてのそミを相止候、是
によつて無益の歎状を御所中にあらん事恥しく存すれハ、
申下して何事も御沙汰なきやうにとそんし御頼申所也、
必すあやしミ玉ふへからずと申にぞ、廣元心中安からす、
義盛ごとき功臣ハ国司に任ぜらるヽともくるしからざる
事なれとも、尼公嫉妬の心より免されす、北条家権柄を
執て支ゆるゆへなり、義盛是をさつし、世を見限て斯申
にや、一世の望ミ此上なしとおもひえて願ひしを、御免
のさたなく月日の移るにしたかつて、とても叶ハぬ事な
りと観念して、歎状をとり返さんといふものならん、大
丈夫も一旦申出せし事をひるかへすへきやうなし、義盛
ハ智勇兼備の老臣なり、歎状を取返して後、存念を申さ
ん為ならすや、然る時はいかなる珍事にか及ハんと甚た
心を苦しめ、返答にこまり居られしか、漸くむねなてお
ろし、足下の願ひ過分にあらす、数年の功労を我等能知
る所なれハ、早速免許有べきやうにおもひしかど、不計
も延引に及ふ事存の外なり、然れとも将軍に御疎意あら
されハ追付免許有へきか、今しばらく扣へ玉ハんやとあ
りしかハ、義盛聞て、さてハ某延引をいきどふり、斯申
ならんと思し召候か、貴所に似合ぬなさけなき仰なり、
勇士の一旦望し事、中途にてむなしくなるハ本意なしと
いへとも、忠をわすれて我意を立んとするハ臣たるの道
にあらす、上に御疎意なき事ハよく存し居申なり、貴所
のあやしミをさんし申さんか為、我か心底をあかし申さ
ん、抑尼御台所ハ、右大将軍御在世の時より事に就て御
口入あり、是利発のしからしむる所とハ申なから、国家
の為にハなりかたし、然かして幕下薨御の後は、政道万
事尼公の計ひとなり、是に継て北条家の権勢つよく、時
政逆心の露顕すといへども、御縁者なりとて御咎なく、
剰へ義時に執権の職をその日に命せらる、何そ是を憲法
とせんや、政道こヽに於て乱れあり、夫より以来ハ将軍
御若年たるによつて、いよく尼公の御計ひなれハ、内
縁の輩時を得て、すでに天下の乱れとなるへきやうすな
るゆへ、何とそ簾直の計ひを以て、無事に治めんものと
身心をこらし、肝たんをくたき立廻る事ハ、貴所も御存
のまへなり、然共却て是を邪のよふに沙汰せらるヽハ、
阿侫のともから満々たるに依てなり、其中へそれかしか
望事願ひ出せしハ一生の不覚、悔めともかいなし、たと
ひ将軍の思召にて免許なし下さるヽとも、けっく動乱の
もとひとなるへし、其ゆへハ、尼公をはしめ内縁の輩心
より出ざる事故、義盛国司に補せられしといわヽ、嫉妬
偏執のものども権門に頼ミて我もくと願ひ出さんに、
利非の沙汰に及ハす、某か免されしを手本として、数多
国司に補せられんハ鏡にかけて見るかことし、然る時ハ
大乱のはしなるへし、今又歎状を申下し望を止むる時ハ、
いさヽか恥ぢよくに似たりといへとも、義盛すら願ふて
叶わぬ国司の任なりと、明らめおもへハ乱を生せす、い
かほと内縁につのる輩なりとも、それかしか手前もあれ
ハ再ひ非分の望を申者あるましくと、安危を量ての事也、
されとも是らハ明白に言上すへき事にあらねハ、只それ
かし身の程をかへり見て望をやめしと披露給ハるへし、
天下の為に恥辱をおもハぬ某なれとも、歎状を御所に差
置ん事、後々まても奸邪の誹謗いまハしきに、取返さん
と存るなりと心底をつヽまず述けれハ、廣元始終を聞て、
今にはしめぬ足下の至忠かんしても猶あまりあり、愚智
の心より誤り疑申せしか、只今の仰せ一々心底にてつし
道理至極の所なり、讒者の舌頭満々て剱の山に等しき時
節なれハ、忍んて守り身を慎ミ、君の為を存るかヽんじ
んなり、歎状におゐてハ、某よきに披露し取返し参らせ
んとありしかハ、義盛大ひによろこひ、さまく天下の
治乱を閑談し、或ハいかりあるひハ歎き、夜に入てやう
やう我宿所にかへりけるとなり、
鎌倉見聞志三篇 第四終
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