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和田
軍記 鎌倉見聞志三篇 第三
目録
一 義盛政道治乱を述る事
并駿河局内奏の罪を蒙る事
一 廣元義盛閑談之事
并禅師公卿御上落の事
和田
軍記 鎌倉見聞志三篇 第三
義盛政道の治乱を述る事
并駿河の局内奏の罪を蒙る事
和田左衛門尉義盛彼地頭代か罪をゆるし、本宿に安堵さ
せし事、政道の正しきにあらすといへとも、尼御台より
の御差図を請すば、又いかなる奸計にかヽり我身のわさ
ハひをなさんも知れすと、家の安否をかへり見て止事を
得ず免許すといへども、一旦将軍家より内奏停止せらる
るの所に、今度の事とも駿河局か内奏より斯のことくな
りしかハ、将軍の仰出されし号令反古となるかゆへ、是
を正さんと義盛将軍の御前に出て申上けるハ、此度地頭
代を召いましめ置候義ハ、先達て申上候通りつミあるに
依て、事落着まて囚人となし置候へとも、件の盗賊も露
顕におよひ罪科を加へ相済候故、地頭代右の罪有りとい
へとも、尼御台より憐愍を加へきむね命し給ふより、罪
をなため、元のことく役義安堵いたさせ候事、尼公にハ
下々の事細かに御存しあるへきやうなけれとも、内縁の
ともからとやかく言上致するゆへ、女義の御身にてハ不
便におほし召れ、宥免の御扱ひを仰出さるヽ義に奉存候、
然れ共、先達て我君より仰出されし号令ハ何のためにて
候や、政道にハ依怙なきやうにと有て、内奏停止仰付ら
れたるの所に、間もなく此たひの義も局中より執奏によ
つて右の次第におよひ候、将軍の御掟反古と成てハ政道
の乱れ是よりおこり、号令憲法におそるヽ事なきに至る、
義盛不肖の身成と申せとも、幕下将軍草創の臣として諸
士別当をかふむり、すてに三十年に及ひ、君三代今に至
て、政事ニ付聊も私をそんぜす、何とそ四海静謐一統し
て、君の御子孫永く天下之武将と仰かれ給ひ、某か子孫
も代々忠臣を失せすして、武家の政道簾直なる義を末世
にしらしめん事のミをそんじ奉るにより、心を政事にか
たむけ勤労をつくすといへども、法令乱れ人和せさるか
故、千辛万苦も無益ならん事なけかハしく候也、君ハ聖
賢ニ渡らせ給へハ、能々治世の要道を思召、分させ給へ
し、然らすんハ天下の権柄保たせ給ふ事も叶ハす、再ひ
君の政道なりと申べからさるか、右大将軍の御武功によ
つてたまく征夷使の勅を蒙り玉ひ、四海の政事武家の
計らひとなりし事容易の御儀に候ハす、君よく是を御賢
察し玉ふべしと、なミたをながしいさめ申けるにそ、将
軍始終を聞し召、義盛か諫言実に忠臣のことハ也、我も
左ハおもひなから、年若きかゆへ事について誤り多かる
へし、老臣のともからも次第に亡ひ失ひて、われを諫む
る者多からす、汝老年をいとハす功労をなし、忠義のか
ん言致する条満足に思なり、此已後とても我誤りあらん
する事あらハ、憚なく諫言すへしと宣ひける、義盛かん
涙にたへかね、愚臣の一言御聞訳下さるヽの上、ありか
たき只今の御上意、誠に寛仁の君にましくなりと称美
し奉り、なくく御前を退出しける、跡にて将軍つくつ
くおほしめさるヽにも、義盛か申ことく是迄罪科あると
もがらも、内縁の執奏によつて罪を加へす免許せし事数
ならす、このゆへに政道のミだれざるやうにとおもひ、
内奏停止申付たりしに、今度の事局ともか愁傷によつて、
母公より御救ひありし所也、然れとも此侭に捨おかハ、
我下知にも其是非になく、後々またく内奏のさまたけ
をなさんは必定なり、かさねての為なれハ、急度罪を正
さんものと御思案あつて、母公の御方へのたまひ遣ハさ
れけるやうは、地頭代の事罪あるものに候へとも、尼君
の御救ひにをおもんじ、罪科を宥免致させ候なり、去な
から、再ひかやうの義是ありてハ、政道の乱れとも相な
り候ゆへ、此已後局ともか執奏の義、御取あけなきやう
に御賢慮なし下さるべし、付てハ已来のために候間、此
度の申次駿河の局よろしく罪科を正し、法令の相立やう
御計ひ下さるへしとゐんぎんに宣ひ遣ハされしかハ、尼
公にも将軍の仰といひ、天下の政道にかヽわる義ゆへ、
もだしかたく思しめし、駿河の局を将軍の御方へ相渡さ
るへしと御返答あつて、すなハちつぼねへ右の旨を命ぜ
られしに、元来駿河の局ハ女中頭にて、局の大老なれハ
此義を承り、定て罪科に所せらるへしと推量して、将軍
の御掟を弁へず内奏せし事、今更我身の罪を思ひやり、
局かしらといわるヽ身にて、御咎にあハんも女中の手前
面目なく、且ハ此後掟を背かぬ手本とて、覚悟して終に
自殺しけるにそ、尼公甚たおとろき玉ひ、御とかめある
とても、命ニ別条ハあるましきに、はやまりたる事をせ
し者かなと惜ミ給ふ、此よし将軍の御方へ仰遣ハされけ
れハ、将軍きこしめし不便におもへとも、さすかハ大老
なり、よくも自害しつる者なりと御感あつて、都て内縁
のともからへ此趣をふれ参され、かたく内奏を御禁制あ
りけるゆへ、局方をはしめ皆々大におそれ、其後ハ内分
の願ひする事なかりしとなり、然るに北条義時尼公の御
前に至り、世事の物語りの席にかの局か事を申出し、此
義も将軍の御心より出たるにあらす、和田義盛しきりに
将軍をすヽめ奉りしゆへに候、局を咎るハ尼公をとかめ
申所なり、内奏すれハとて、政道をかまハず無体に救ハ
せ玉ふにあらず、なだむへきものならばはやく免し遣さ
るヽまでの義なり、或ハ囚人となつて百日を経へきもの
ハ五十日にてゆるされ、五十日いましめ置を三十日にて
免許せらるヽハ、是ハ仁慈のいたす所にして、尼公のす
くひゆへはやく免されしと思へハ、自然奉公に忠をつく
すものにて候、然る時ハ却て天下のためなるを、義盛ひ
とへに御口入あるかゆへ、政道の乱れなどと言上いたす
により、将軍いささかの利にまよハせ玉ひ、きひしく内
奏を止めさせ玉ふ所なりと申せしかハ、尼公けにもとお
ぼしめし、またく和田をにくミ玉ひ、事について将軍
へ義盛を近付玉ハぬ様に仰なられ、義時をはしめ近習の
者まて和田か出仕の取次させぬやうにと計らひけるこそ
うたてけれ、
扨またかの地頭代のことき御咎をかふむりしものとも、
内縁について免されん事を思ふといへとも、堅く内奏を
停止させられし事ゆへ、駿河の局か自害にこりて御願ひ
申事あたわす、くるしミ居るともがらへ、義時人をもつ
て内奏を停止ありしハ、和田左衛門かはからひなりと告
させけるゆへ、愚智の者ども、おのれか罪を犯せし事を
思ハす、内奏のならぬゆへ、助かるつミをのかれぬやう
におもひ、義盛をうらミ詈りける、惣して願ひあるとも
からにハ、皆々和田を悪しくいわせける故、匹夫のさか
なき口の葉に義盛か事をさまあしく風聞しけるを、讒人
等尾にひれを付て将軍へ言上す、はしめのほとハ御用ひ
もなかりしか、彼風聞をきこし召、将軍共にいさヽかま
よハせ玉ふ御気色なりしかハ、侫奸のともから時を得たりといよく障化をなしにける、
廣元義盛閑談之事
並禅師公卿御上洛之事
善事ハ行ひかたく悪事ハそまりやすし、良薬ハ口に苦く
忠言は耳にさからふと、然れとも事の急に及ぬれは後悔
する事まヽあるもの也、されハ和田左衛門尉義盛天下の
為に労をいとわす、君の為に忠誠を尽し、しばく諫言
を奉るといへとも、月光浮雲に覆ハるヽならひにて、是
をさヽへこはむるかゆへ、忠臣むなしくもちひ玉ハす、
然るに此頃にいたり、義盛か先言おぼし召合さるヽ事あ
り、其ゆへハ金吾将軍の若君善哉丸、一たん鶴か岡別当
の元におわせしを、尼御台所の計らひとして御所へ呼か
へし御側にて養育あり、剰へ将軍之御猶子として将軍の
御所へ遣ハされ尊敬し給ふか故、義盛是をいさめ、後患
のたねなりとてしきりに制しとヽめ、たヽ御出家させ玉
へと申せしかと尼公用ひ玉ハす、善哉丸ハ我孫なり、将
軍の為にも甥なれハ何の苦しき事かあらんとて、其まヽ
に差置もてなしかしつき玉ひけるを、義盛か申ことく、
此善哉丸ハ生得心かしこく勇猛にして力つよく、幼年に
ましませども尋の常の童形ならす、骨柄すくれおハせし
か、段々に御成人あるに就ていよく心猛く、我こそ右
大将軍の嫡孫なりとおほさるヽにや、自然とその色見へ
けるそ、尼御台所はしめて心付、この侭にて差置ハ後々
の禍ひと相成へし、はやく出家をとけさせんと、定暁僧
都のもとへ御内意仰遣ハされる、今年九月十五日彼坊に
おゐて善哉公落餝させられ、尼公仰けるやうハ、御身ハ
一旦阿闍利了暁の弟子となり、仏門に入し身なれハ俗家
の交りよろしかるまし、はやく出家をとけて父のぼだい
ならひに祖父君の御跡をも弔ひ、われをも引導せらるべ
き、和田を初老臣等ミなもつて是をすヽめぬ、九族天に
生ずといふ功徳を亡脚致されなと、事を諸臣によせて宣
ひしかハ、善哉公扨ハ我を追出さん為なるへし、一度御
所に参り猶子と定め給ひ、今さら出家になれとハ天下を
我にあたへましとの事ならんと思ハれしかとも、祖母公
の御指図いなみかたく、不興なから領掌し終に定暁坊の
室にて御餝りを落さるヽ、すなハち法名ハ公暁と号す、
既に出家をとけ給ひしかハ尼君安堵ましくける処に、
和田義盛此やうすを見て、扨ハ今こそ御合点参りしなら
ん、しかし御出家のこともはやおそし、御幼年より其ま
ま阿闍利のもとに置せ給ふへきに、無体に御所へまねき
よせ、御猶子なとヽいひふらし、将軍の行粧をしらしめ、
十分智恵発するの時に至りて出家をさするとも何の益か
あらん、此若君きハめて心かしこくおわすれハ本心出家
すべからす、かならす天下を継の了簡あるべし、去なか
らさる者ハ日々に疎なるの道理なれハ、鎌倉中に止め申
さす遠国に置まいらせなハ、わさわひ有ましとおもひし
かハ、所詮直にいさめ申とも御用ひなき事必定ならん、
人をして諫めさせんとほつし、大膳大夫大江廣元亭にお
もむき、対面の上義盛君の事物語りし、善哉公出家せら
るヽといへとも、尼公の御計ひにしてさらに実の心にあ
らす、おなしく鎌倉にさしおかるヽハ、猛獣をやしなひ
自分に禍ひをまねくに似たり、天下の為・君の為なれハ
足下何とそ是をいさめ、登檀受戒の為にと号してなりと
も京都へ登し、かの地の御家人等に命してよそなから守
護させられなハ、公暁の御心も和らく道理ならんか、先
達ても申通り、御嫡孫にてましくゆへ、決定天下を譲
り玉ふ御心底におゐてハ御出家にも及ハす、御所中にと
とめ玉ふへけれとも、今落餝なさしめ給ふハ、譲らせら
るヽ御所存にあらすと見へたり、しからハ宜く後難をの
そくの御計ひこそあるへき事に候ハすや、我是をいさめ
んと思へとも、貴所等も御存しの通り、尼御台所それか
しを後ろめたくやうに思し召さるヽの気あり、用ひ玉ハ
ぬを知つていさむるハ愚智の至りなり、されども又、君
の御為よろしからざるを見なから、口をとぢてあらん事
忠臣にあらす、よつてそれがしか所存の趣の所を申なり、
貴所は尼公にも頼におぼし召さるヽ人なれハ、利害を説
ていさめ給ハんに御聞入れなきといふ義ハあるまし、先
年もかの君を御所へまねき玉ふのミきり、某ひたすら諫
言申せしかとも御用ひなくして、よひむかへ御猶子の御
沙汰にまておよひしに、今またにハかに出家をさせらる
る事思召合さるの義あるの故ならん、然るに於てハ後患
をかへりミ遠くしりぞけ玉ハん事こそ長久の御計ひなる
へし、御家人多しといへとも時にしたかひ世につれて誠
忠を述る者なし、某壱人万苦をしのき寸忠を尽すといへ
とも、毎度謀るといへともいかなる事にや御用ひなし、
今此義におゐても直に言上する事あたわす、ひとへに貴
所の忠言を頼なりと、或ハなけきあるひハ述懐して落涙
に及ひしかハ、廣元も義盛か心底をかんしともに涙をな
かし、仰らるヽ趣一々承知せり、此義におゐてハ、某と
てもさやうに存すれハ、愚意の及ふほど諌言を申へきな
り、御心安かるへしと閑談数刻を移し、義盛すこし安堵
のおもひをなし、別れて宿所にかへりけり、
跡にて廣元、和田か誠忠の言骨髄にてつし、禅師公暁の
生立まことに恐れすんはあるへからすと、それより直に
尼公御所に参り、ひそかに言上の義是あるよし通しけれ
ハ、尼公さつそく召呼れ御聞あり、時に廣元局たち共を
遠さけ、ちかく進んて申けるハ、善哉公御出家とけらる
る上ハ別なる義もあるましく候へとも、つくく事の躰
を愚案仕るに、御心猛くさかくしき御生得の御方に候故、
ひさしく御所にましく将軍家の花麗なるを能々御覧あ
りし御事に候へは、御心底のほともおぼつかなく存し奉
る、遠き思慮なき時は近き患ひありと申候程に、禅師公
を鎌倉の外に移し置せられ然るへく候ハんか、幸ひ受戒
御修行の為と号し京都へのほせ玉ハヽ、将軍の御為・禅
師公の御為にもよろしく、御本心御得道ましまさハ是に
過たるよろこひ候まし、とても鎌倉に置参らせてハ、得
道の義ハ心元なく奉存候、願くハ片時も早く上洛なさし
め給ひて然るへしと、此外種々の利害をとき諫言せられ
けるにぞ、義盛か申さは御聞入れあるましきに、篤実第
一の廣元のいさめゆへ、尼公にも尤に思し召、公暁か事
ハ幼少より出家の覚悟なれハ、今度素懐をとげさせぬる
所なり、いかてか狼心をはさむへきや、去なから登檀受
戒の為上洛の事は互の吉事なれハ、いかにも京都へ遣ハ
すへしと宣ひける、廣元是を承り、心の中に思ハれける
ハ、誠に義盛か忠といひ智といひ、よくも尼公の心底を
さつしけるもの哉、我今のことく利害をとくといへとも
いまだ承知の御心なし、然ども受戒の為に上洛させんと
あるハ某か申ゆへなり、いつれの道にも遠さけ玉へはわ
ざわひなし、此上ハいさむるとも無益ならんと推量して、
公暁御上洛御いそぎ有へきよしを勧め申て退出せられけ
る、尼御台所すなハち禅師公暁に上洛して修行の功をつ
ミ、再ひ下向可致と宣ひけれハ、公暁わざとよろこひの
躰にて心よく領掌ありけるゆへ、同月廿二日定暁僧都を
ともなひかまくらを出立あり、将軍家より扈従の侍五人
を相そへ給ふ、廣元此よしを義盛に告、尼公の仰を物語
りせしかハ、和田義盛歎息して貴所の諫言すら斯の通り
なり、しかし御諫によつて禅師公上洛ありしハ悦ひなれ
とも、尼公其御心底ならは後々呼下さるヽ義もあるへき
か、其せつ是をいさめすは、終にわざわひを引出すへし
と申ける、義盛か先見神に通し、果して此後尼公のはか
らひとして禅師公暁をかまくらにまねき、鶴か岡の別当
職に補せられける故、公暁年来の大望、父の怨なりとて
将軍実朝公を弑し奉るにいたりぬ、おそるへき事共也、
鎌倉見聞志三篇 第三終
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