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(1)平家物語と富山県
富山県には、平家物語に関連する地域が、何ヶ所か、有ります。
1.雨晴(あまはらし) 「源義経が奥州へ行く途中に、雨が降ってきて、雨を晴らした(雨宿りをした)ので、その名が付きました。」という話を、保育園で聴いたような記憶が、有ります。『越中志徴』に、「むかし、義経奥州下りの時、この磯を通られしに折ふし虚雨(にわかあめ)せしに、供奉の人は諸共にこの岩の下に入りて雨晴らしせられたるにより」と、由来を記しています。JR氷見線雨晴駅の近くです。
2.経如意の渡し跡(よしつねにょいのわたしあと) 高岡市伏木に有ります。
射水川(現小矢部川)河口の渡船場の古名で、左岸の伏木と右岸の六渡寺(中伏木)を結び、又の名を六渡寺渡、古くは籠(鹿子)の渡などと呼ばれ、重要な地点でした。
室町時代に書かれた軍記物語『義経記』に文治三年(1187)春、源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って落ちのびる際に、この地を経たとの伝承があります。
渡守の平権守(たいらのごんげんのかみ)が「判官殿ではないか」と怪しみますが、弁慶が「あれは加賀の白山より連れて来た御坊様だ」と叫び、嫌疑を晴らすために扇で義経をさんざんに打ちのめすという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一説です。
平成2年に、銅像が寄贈されました。
これとよく似た伝説は全国にあり、特に加賀安宅の関の伝説が有名で、謡曲「安宅」、江戸時代に入ると歌舞伎十八番「勧進帳」として知られています。
この他にも、高岡には義経の雨晴し(上記1.)、八幡社の義経衣掛けの古樹跡、気多神社の弁慶のこぶし跡や足跡等、義経弁慶にまつわる伝説が多数有ります。
乗船料 大人200円 小人100円 定休日 無休 自転車も乗れます。
交通 JR氷見線伏木駅下車徒歩5分伏木経由氷見行バス伏木駅下車徒歩5分
川とは離れたところに、昭和二十九年に如意渡保存会が、「渡し守」の館跡の礎石を集めて建てた「かきよせ」の碑と昭和三十年に高岡市が建てた「如意の渡」の石碑がありますが、そこは八幡社の境内で普段はあまり人が来ません。
義経記より
四十七 如意(によい)の渡(わたり)にて義経を弁慶打(う)ち奉る事
夜も明(あ)けければ、如意(によい)の城を船(ふね)に召(め)して、渡(わたり)をせんとし給ふに、渡守(わたしもり)をば平権守(へいごんのかみ)とぞ申(まうし)ける。彼(かれ)が申(まうし)けるは、「暫(しばら)く申(まうす)べき事候。是は越中(ゑつちう)の守護(しゆご)近(ちか)き所(ところ)にて候へば、予(かね)て仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りて候ひし間(あひだ)、山伏(やまぶし)五人三人は言(い)ふに及(およ)ばず、十人にならば、所(ところ)へ仔細(しさい)を申さで、わたしたらんは僻事(ひがごと)ぞと仰(おほせ)つけられて候。すでに十七八人御わたり候へば、あやしく思ひ参(まゐ)らせ候。守護(しゆご)へその様(やう)を申候ひてわたし参らせん」と申(まうし)ければ、武蔵坊(むさしばう)これを聞(き)きて、妬(ねた)げに思(おも)ひて、「や殿(との)、さりとも北陸道(ほくろくだう)に羽黒(はぐろ)の讚岐坊(さぬきばう)を見知(みし)らぬ者(もの)やあるべき」と申(まうし)ければ、中乗(のり)に乗(の)りたる男(おとこ)、弁慶(べんけい)をつくづくと見(み)て、「実(げ)に/\見参(まゐ)らせたる様(やう)に候。一昨年(おとゝし)も一昨々年(さおとゝし)も、上下向毎(かうごと)に御幣(ごへい)とて申(まうし)下(くだ)し賜(たま)はりし御坊(ごばう)や」と申(まうし)ければ、弁慶(べんけい)嬉(うれ)しさに、「目、よく見られたり/\」とぞ申(まうし)ける。権守(ごんのかみ)申(まうし)けるは、「小賢(こざか)しき男(おとこ)の言(い)ひ様(やう)かな。見知(し)り奉りたらば、和男(わおとこ)が計(はか)らひにわたし奉(たてまつ)れ」と申(まうし)ければ、弁慶(べんけい)これを聞(き)て、「そも/\この中にこそ九郎判官(はうぐはん)よと、名を指(さ)して宣へ」と申(まうし)ければ、「あの舳(へさき)に村千鳥(むらちどり)の摺(すり)の衣(ころも)召(め)したるこそあやしく思(おも)ひ奉(たてまつ)れ」と申(まうし)ければ、弁慶(べんけい)「あれは加賀(かゞ)の白(しら)山より連(つ)れたりし御坊(ごばう)なり。あの御坊故(ゆへ)にところどころにて人々にあやしめらるゝこそ詮(せん)なけれ」と言(い)ひけれども、返事もせで打俯(うちうつぶ)きて居(ゐ)給ひたり。弁慶(べんけい)腹立(はらだ)ちたる姿(すがた)になりて、走(はし)り寄(よ)りて舟端(ばた)を踏(ふ)まへて、御腕(かいな)を掴(つか)んで肩(かた)に引懸(ひつか)けて、浜(はま)へ走上(はしりあが)り、砂(いさご)の上(うへ)にがはと投(な)げ棄(す)てて、腰(こし)なる扇(あふぎ)抜(ぬ)き出(いだ)し、労(いた)はしげもなく、続(つゞ)け打(う)ちに散々(さんざん)にぞ打(ち)たりける。見(み)る人目もあてられざりけり。北(きた)の方(かた)は余(あま)りの御こゝろ憂(う)さに声(こゑ)を立(た)てても悲(かな)しむばかりに思召(おぼしめ)しけれども、流石(さすが)人目の繁(しげ)ければ、さらぬ様(やう)にておはしけり。平権守(へいごんのかみ)これを見(み)て、「すべて羽黒山伏(はぐろやまぶし)程情(なさけ)なき者(もの)はなかりけり。「判官(はうぐはん)にてはなし」と仰(おほ)せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程痛(いた)はしく情(なさけ)なく打(う)ち給へるこそこゝろ憂(う)けれ。詮(せん)ずる所(ところ)、これは某(それがし)が打(う)ち参(まゐ)らせたる杖(つえ)にてこそ候へ。かゝる御労(いた)はしき事こそ候はね。これに召(め)し候へ」とて、船(ふね)を差(さ)し寄(よ)する。梶取(かぢとり)乗(の)せ奉りて申(まうし)けるは、「さらばはや船賃(ふなちん)なして越(こ)し給へ」と言(い)へば、「何時(いつ)の習(ならひ)に羽黒(はぐろ)山伏(ぶし)の船賃(ふなちん)なしけるぞ」と言(い)ひければ、「日比取(り)たる事はなけれども、御坊(ごばう)の余(あま)りに放逸(はういつ)におはすれば、取(と)りてこそわたさんずれ。疾(と)く船賃(ふなちん)なし給へ」とて船(ふね)をわたさず。弁慶(べんけい)、「和殿(わどの)斯様(かやう)にわれ等(ら)に当(あた)らば、出羽(ではの)国へ一年二年のうちに来(きた)らぬ事はよもあらじ。酒田(さかた)の湊(みなと)は此少人(せうじん)の父、酒田(さかた)次郎殿(じらうどの)の領(りやう)なり。只今(たゞいま)当(あた)り返(かへ)さんずるものを」とぞ威(おど)しけり。されども権守(ごんのかみ)、「何(なに)とも宣(のたま)へ、船賃(ふなちん)取(と)らで、えこそ渡すまじけれ」とてわたさず。弁慶(べんけい)、「古(いにし)へ取(と)られたる例(れい)はなけれ共(ども)、此僻事(ひがごと)したるによつて取(と)らるゝなり」とて、「さらばそれ賜(た)び候へ」とて、北(きた)の方(かた)の著給へる帷(かたびら)の尋常(じんじやう)なるを脱(ぬ)がせ奉りて、渡守(わたしもり)に取(と)らせけり。権守(ごんのかみ)これを取(と)りて申(まうし)けるは、「法(はう)に任(まか)せて取(と)りては候へども、あの御坊(ごばう)のいとほしければ参らせん」とて、判官(はうぐわん)殿にこそ奉(たてまつ)りけれ。武蔵坊(むさしばう)是を見(み)て、片岡(かたおか)が袖を控(ひか)へて、「痴(おこ)がましや、たゞあれもそれもおなじ事ぞ」と囁(さゝや)きける。かくて六動寺(ろくだうじ)を越(こ)えて、奈呉(なご)の林(はやし)をさして歩(あゆ)み給ひける。武蔵(むさし)忘(わす)れんとすれ共(ども)、忘(わす)られず。走(はし)り寄(よ)りて判官の御袂(おんたもと)に取付(とりつ)きて、声(こゑ)を立(た)てて泣(な)く/\申(まうし)けるは、「何時(いつ)まで君(きみ)をかばひ参(まゐ)らせんとて、現在(げんざい)の主(しう)を打(う)ち奉るぞ。冥顕(みやうけん)の恐(おそれ)もおそろしや。八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)も許(ゆる)し給へ。浅(あさ)ましき世の中かな」とて、さしも猛(たけ)き弁慶(べんけい)が伏転(ふしころ)び泣(な)きければ、侍(さぶらひ)ども一つ所(ところ)に並み居て、消(き)えいる様(やう)に泣(な)き居(ゐ)たり。判官(はうぐはん)「これも人の為(ため)ならず。斯程(かほど)まで果報(くはほう)つたなき義経(よしつね)に、斯様(かやう)に心ざし深(ふか)き面々(めん/\)の、行末(ゆくすゑ)までも如何(いかゞ)と思へば、涙(なみだ)のこぼるゝぞ」とて、御袖を濡(ぬ)らし給ふ。各々(おのおの)この御ことばを聞(き)きて、猶(なほ)も袂(たもと)を絞(しぼ)りけり。かくする程に日も暮(く)れければ、泣(な)く/\辿(たど)り給(たま)ひけり。やゝありて北の方(かた)、「三途(さんづ)の河をわたるこそ、著(き)たる物を剥(は)がるゝなれ。少(すこ)しも違(たが)はぬ風情(ふぜい)かな」とて、岩瀬(いはせ)の森(もり)に著(つ)き給ふ。その日はこゝに泊(とま)り給ひけり。明(あ)くれば黒部(くろべ)の宿(やど)に少(すこ)し休(やす)ませ給(たま)ひて、黒部(くろべ)四十八か瀬(せ)の渡りを越(こ)え、市振(いちふり)、浄土(じやうど)、歌(うた)の脇(わき)、寒原(かんばら)、なかはしといふ所(ところ)を通(とほ)りて、岩戸(いはと)の崎(さき)といふ所(ところ)に著(つ)きて、海人(あま)の苫(とま)屋に宿(やど)を借(か)りて、夜と共(とも)に御物語(ものがたり)ありけるに、浦(うら)の者(もの)ども、搗布(かちめ)といふものを潛(かづ)きけるを見給ひて、北(きた)の方(かた)かくぞ続(つゞ)け給ひける。
四方(よも)の海(うみ)浪(なみ)の寄(よ)る/\来(き)つれどもいまぞ初(はじ)めてうきめをば見(み)る
弁慶これを聞(き)きて、忌々(いま/\)しくぞ思(おも)ひければ、かくぞ続(つゞ)け申(まうし)ける。
浦(うら)の道(みち)浪(なみ)の寄(よ)る/\来(き)つれどもいまぞ初(はじ)めてよきめをば見(み)る
かくて岩戸(いはと)の崎(さき)をも出(い)で給ひて、越後(ゑちご)の国府(ふ)、直江(なほえ)の津(つ)花園(はなぞの)の観音堂(くわんをんだう)といふ所(ところ)に著(つ)き給ふ。この本尊(ほんぞん)と申(まうす)は、八幡殿(はちまんどの)安倍(あべ)の貞任(さだたう)を攻(せ)め給ひし時(とき)、本国の御祈祷(きたう)の為(ため)に直江(なをえの)次郎と申(まうし)ける有徳(うとく)の者に仰(おほ)せつけて、三十領(りやう)の鎧(よろひ)を賜(た)びて、建立(こんりう)し給ひし源氏重代(げんじぢうだい)の御本尊(ほんぞん)なりければ、その夜はそれにて夜もすがら御祈念(ごきねん)ありけり。
明治四十四年 学生文庫より 後日J−TEXTにて全巻公開予定です。
3.倶利伽羅峠 小矢部市に有ります。古戦場。1183年木曾義仲が平維盛軍を破りました。4月末が、八重桜の見頃です。『源平盛衰記』(国民文庫)より 後日J−TEXTにて全巻公開予定です。2000年4月現在、巻二まで公開中です。
(巻第二十八末) 斉明は黒糸威の腹巻に、長刀脇に挟て、三位中将の前に跪て申けるは、木曾は此間、越後国府にと承、御方軍に勝て、越前加賀を従へさせ給候ぬれば、早馬立て打上り侍らんと存候。越中(有朋下P106)越後の境に寒原と云難所あり、敵彼をこえて越中へ入なば、御方の為にゆゝしき御大事、彼を伐塞で候なば、木曾が為には大事にて侍るべし、さればP0693急官兵を指遣て、寒原を切塞て越中国を随へばやと申。何事も北国の事は斉明が計也とて、越中前司に仰す。盛俊五千餘騎を引卒して、加賀と越中との境なる倶梨伽羅山を打越えて、越中国小矢部河原を打過て、般若野にこそ陣をとれ。木曾早馬に驚て、今井四郎に仰て、六千餘騎を相具して越中国に指遣す。兼平は鬼臥寒原打過て、四十八箇瀬を渡して、越中国婦負郡御服山に陣をとる也。(有朋下P107)
屋卷 第二十九 は、ほとんどが倶利伽羅の合戦についてです。→ 巻二十九
4.巴御前終焉の地(の説の一つです) 『源平盛衰記』(国民文庫)より S3506 巴関東下向事 の全文です。
畠山は、九郎義経と院御所に候けるが、木曽漏やしぬらん覚束なしとて、三條河原の西の端まで打出たり。義仲は三条白河を東へ向て引けるを、重忠は本田半澤左右に立歩出し、東へ向て落給は大将と見は僻事か、武蔵国住人秩父の流れ、畠山庄司、次郎重忠也、返合給へや/\と云ければ、木曽馬の鼻を引返し、誰人に合て軍せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥しき敵ぞ思切と下知して河を阻て射合たり。さすが敵は大勢也、木曽(有朋下P338)は僅に十三騎、畠山が郎等の放矢は、雨の降が如に飛ければ、わづか小勢堪兼て、三條小河へ引退。重忠勝に乗て責懸ければ、木曽も引返々々、弓箭に成、打物に成、追つ返つ返つ追つ、半時計戦ける。其中に木曽方より、萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽征矢負て、滋籐の弓眞中取、葦毛馬の太逞きに、少し巴摺たる鞍置て乗たりける武者、一陣に進て戦けるが、射も強切も強、馳合馳合責けるに、指も名たかき畠山、河原へさと引て出。畠山半澤六郎を招て、如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合たれども、是程軍立のけはしきP0870事に不(レ)合、木曽の内には、今井、樋口、楯、根井、此等こそ四天王と聞しに、是は今井、樋口にもなし、さて何なる者やらんと問ければ、成清、あれは木曽の御乳母に、中三権頭が娘巴と云女也、つよ弓の手だり荒馬乗の上手、乳母子ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を不(レ)取、今井樋口と兄弟に〔し〕て怖しき者にて候と申。畠山さてはいかゞ有べき、女に追立られたるも云甲斐なし、又責寄て女と軍せん程に、不覚しては永代の疵、多者共の中に、巴女に合けるこそ不祥なれ、但木曽の妾といへば懐きぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜にせん、返せ者共とて取て返し、木曽を中に取籠て散々に蒐、畠山は巴に目(有朋下P339)をぞ懸たりける。進退き廻合ん/\と廻ければ、木曽巴を組せじと蒐阻々々て、二廻三廻が程廻ける處に、畠山、巴強ちに近く廻合。是は得たる便宜と思、馬を早めて馳寄て、巴女が弓手の鎧の袖に取附たり。巴叶じとや思けん、乗たる馬は春風とて、信濃第一の強馬也。一鞭あててあふりたれば、冑の袖ふつと引切て、二段計ぞ延にける。畠山、是は女には非ず、鬼神の振舞にこそ、加様の者に矢一つをも射籠られて、永代の恥を不(レ)可(レ)残、引に過たる事なしとて、河原を西へ引退き、院御所へぞ帰参ける。
木曽は此彼を打破て、東を指て落行けり。龍華越に北国へ傳とも聞けり。長坂にかゝり、播磨へ共云けり。其口様々也けれども、大津へ向て被(レ)打けるが、四宮河原にて見給へば、僅に七騎に残たり。巴は七騎の内にあり。生年二十八、身の盛なる女也。去剛の者成ければ、北国度々の合戦にも手をも負P0871ず、百餘騎が中にも七騎に成まで付たりけり。四宮河原、神無社、関清水、関明神打過て、関寺の前を粟津に向てぞ進ける。巴は都を出ける時は、紺村紅に千鳥の鎧直垂を著たりけるが、関寺合戦には、紫隔子を織付たる直垂に、菊閉滋くして、萌黄糸威の腹巻に袖付て、五枚甲の緒をしめ、三尺五寸の太刀に、二十四指たる眞羽の矢の射残したるを負、重籐の弓に、せき弦かけ、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍置てぞ乗たり(有朋下P340)ける。七騎が先陣に進て打けるが、何とか思けん甲を脱、長に餘る黒髪を、後へさと打越て、額に天冠を当て、白打出の笠をきて、眉目も形も優なれけり。歳は二十八とかや。爰に遠江国住人、内田三郎家吉と名乗て、三十五騎の勢にて巴女に行逢たり。内田敵を見て、天晴武者の形気哉、但女か童か■(おぼつか)なしとぞ問ける。郎等能々見て女也と答。内田聞敢ず、去事あるらん、木曽殿には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討れぬ、巴は未在ときく、是は強弓精兵、あきまを数る上手、岩を畳金を延たる城也共、巴が向には不(レ)落と云事なし、去癖者と聞召て、鎌倉殿、彼女相構て虜にして進べき由仰を蒙たり。巴は荒馬乗の大力、尋常の者に非ずと聞、如何がすべきと思煩けるが、郎等共に云様は、女強といふとも百人が力によも過じ、家吉は六十人が力あり、殿原三十餘人、既に百人にあまれり、殿原左右より寄て、左右の手を引張れ、家吉中より寄て、などか巴を取ざらんと云けるが、内田又思返す様、まて/\暫し、槿花の朝に咲て夕べに萎だにも、己が盛は有物を、八十九十にて死なん命も、二十三十にて亡ん命も同事、女程の者にP0872組むとて、兎角計ごとを出しけるよと、殊に後陣に引へたる、甲斐の一條の思はん事こそ恥しけれ、殿原一人も綺べからず、家吉一人打向て巴女が頸とらんと云ければ、(有朋下P341)三十餘騎の郎等は、日本第一に聞えたる怖しきものに組むまじき事を悦て、尤々と云ければ、内田只一人、駒を早めて進む處に、巴是を見先敵を讃たりけり。天晴武者の貌哉。東国には、小山、宇都宮歟、千葉、足利歟、三浦、鎌倉か、■(おぼつか)な誰人ぞ、角問は木曽殿の乳母子に、中三権頭兼遠が娘に巴と云女也、主の遺の惜ければ、向後を見んとて御伴に侍ると云。鎌倉殿の仰を蒙、勢多手の先陣に進るは、遠江国住人内田三郎家吉と名乗進けり。巴は、一陣に進むは剛者、大将軍に非ずとも、物具毛の面白きに、押並て組、しや首ねぢ切て軍神に祭らんと思けるこそ遅かりけれ。手綱かいくり歩せ出す。去共内田が弓を引ざれば、女も矢をば不(レ)射(いざり)けり。互に情を立たれば、内田太刀を抜ざれば、女も太刀に手を懸ず。主は急たり馬は早りたり。巴、内田、馬の頭を押並、鐙と/\蹴合するかとする程に、寄合互に音を揚、鎧の袖を引違たり。やをうとぞ組だりける。聞る沛艾の名馬なれ共、大力が組合たれば、二匹の馬は中に留て働かず。内田勝負を人に見せんと思けるにや、弓箭を後へ指廻し、女が黒髪三匝(さんさう)にからまへて、腰刀を抜出し、中にて首をかゝんとす。女是を見て、汝は内田三郎左衛門とこそ名乗つれ、正なき今の振舞哉、内田にはあらず、其手の郎等かと問ければ、内田我身こそ大将よ、郎等には非ず、行(有朋下P342)跡何にと申せば、女答て云、女に組程の男が、中にて刀を抜、目に見する様やは有べき、軍は敵に依て振舞べし、故實も知ぬ内田P0873哉とて、拳を握り、刀を持たる臂(ひぢ)のかゝりをしたたかに打。餘に強く被(レ)打て、把る刀を被(二)打落(一)、やをれ家吉よ、日本一と聞たる木曽の山里に住たる者也、我を軍の師と憑めとて、弓手の肘(ひぢ)を指出し、甲の眞顔取詰て、鞍の前輪に攻付つゝ、内甲に手を入て、七寸五分の腰刀を抜出し、引あほのけて首を掻、刀も究竟の刀也、水を掻よりも尚安し。馬に乗直り、一障泥あふりたれば、身質(むくろ)は下へぞ落にける。首を持ち木曽殿に見せ奉れば、穴無慙や、是は八箇国に聞えし男、美男の剛者にて在つる者を、被(レ)討けるこそ無慙なれ、是も運盡ぬれば汝に討れぬ、義仲も運盡たれば、何者の手に懸、あへなく犬死せんずらん、日来は何共思はぬ薄金が、肩に引て思也、我討れて後に、木曽こそ幾程命を生んとて、最後に女に先陣懸させたりといはん事こそ恥しけれ、汝には暇を給ふ、疾々落下とぞ宣ひける。巴申けるは、我幼少の時より君の御内に召仕れ進せて、野の末山の奥までも、一の道にと思切侍り、今懸る仰を承こそ心うけれ、君の如何にも成給はん處にて、首を一所に並べんと掻詢(かきくどき)云ければ、木曽誠にさこそは思ふらめ共、我去年の春信濃国を出し時妻子を捨置、又再び不(レ)見して、永き別の(有朋下P343)道に入ん事こそ悲けれ、去ば無らん跡までも、此事を知せて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりも可(レ)然と存る也、疾々忍落て、信濃へ下り、此有様を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣ければ、巴遺は様々惜けれ共、随(二)主命(一)、落涙を拭つゝ、上の山へぞ忍びける。粟津の軍終て後、物具脱捨、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語、互に袖をぞ絞ける。世靜て右大将家より被(レ)召ければ、巴則P0874鎌倉へ参る。主の敵なれば、心に遺恨ありけれ共、大将殿も女なれ共、無雙の剛者、打解まじきとて森五郎に被(レ)預。和田小太郎是を見て、事の景気も尋常也、心の剛も無雙也、あの様の種を継せばやとぞ思ける。明日頸切べしと沙汰有けるに、和田義盛申預らんと申けるを、女なればとて心ゆるし有まじ、正しき主親が敵也、去剛の者なれば、隙もあらば伺思心有らん、叶まじと被(レ)仰けるを、三浦大介義明が、君の為に命を捨、子孫眷属二心なく、君を守護し奉て、年来奉公し奉る、争思召忘給ふべき、義盛相具して候共、僻事更に在まじきと、様々申立預にけり。即妻と憑て男子を生。朝比奈三郎義秀とは是なりけり。母が力を継たりけるにや、剛も力も並なしとぞ聞えける。和田合戦の時朝比奈討れて後、巴は泣々越中に越、石黒は親かりければ、此にして出家して巴尼とて、佛に奉(二)花香(一)、主親朝比奈が後世弔ひけるが(有朋下P344)九十一まで持て、臨終目出して終りにけるとぞ。
或説には、赤瀬の地頭の許に仕るといへり。
高望王より九代孫、三浦大介義明、杉本太郎義遠、和田小太郎義盛、朝比奈三郎義秀也。
義経記及び源平盛衰記は平家物語協会さんから引用のお許しをいただいて掲載しました
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