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磯禅師の娘。
源義経の愛妾。
母親の磯禅師と同様に、京の白拍子であった。白拍子とは、女が男の格好をして、鼓に合わせて舞う舞い、及びその舞い手のことです。
義経にはすでに川越氏の正妻があったが、兄頼朝から押しつけられたこの女性を義経は煙たく思っていたらしい。その反動も手伝ってか、義経は静だけを寵愛するようになっていました。
しかし、義経と頼朝との対立がふたりを引き裂く。無断任官したことが原因で頼朝と不和を生じた義経は、京を落ちて静とともに西国に逃れようとしたが、おりからの風雨で船が流されてしまった。義経は仕方なく吉野山に隠れることにしたが、吉野は女人禁制。義経と静は、泣く泣く別れることとなりました。
義経は静に財宝とともに供の者をつけたが、この者が財宝を持ち逃げしてしまった。途方にくれているところを、静は北条政子の父北条時政の手勢に捕らえられてしまいます。
義経の行方を詰問する頼朝でしたが、静は口を割りません。本当に知らなかったのかもしれませんが、ともかく頼朝は義経の行方を聞き出すことはできませんでした。諦めた頼朝は考えを変え、白拍子である静の舞を所望しました。静は断りきれず、鎌倉の鶴岡八幡宮において頼朝と政子夫妻の面前で舞を舞いました。彼女の胸中には、どんな思いが去来していたことでしょう。
そのとき、静は次の二首をうたったといいます。
よしの山 みねのしら雪
ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき
しずやしず
しずのをだまき くり返し 昔を今に
なすよしもがな
明らかに義経を想う詠である。人々は、静の義経への健気な愛と、愛する人の仇の前で堂々と詠うその気丈さにうたれ、感動して涙を流したが、頼朝は激怒しました。
その頼朝をなだめたのは、他ならぬ政子であった。政子とて、父時政の反対を押し切って愛する頼朝とかけおちしたほどの女です。義経への静の愛に、往年の自分と頼朝を想起したのでしょうか。
このときすでに、静の胎内には、義経との愛の結晶が宿っていました。しかし、女児なら助命すると言われたものの、不幸にして男児であったため、由比ヶ浜に沈められてしまいます。19才の静の悲しみは、いかほどのものだったでしょうか。
そののち、大姫から多くの贈物をもらって鎌倉から姿を消した静は、磯禅師と静かに暮らしたとも、義経の死を知って後を追うように死んだともいわれていますが、確かなことは伝えられていません。
大姫もまた、木曽義仲の子義高を愛しながら、父頼朝によって引き裂かれた過去をもった女性です。
ちなみに、鎌倉の鶴岡八幡宮の舞で、銅拍子を担当したのは畠山重忠、鼓は、曽我兄弟に討たれることになる工藤祐経(曽我物語として有名)だったといいます。
大姫
(おおひめ)
1178−1197
源頼朝・北条政子の長女。頼家・実朝の姉。
6歳のとき木曾義仲の嫡男清水冠者義高と婚約しますが、1183年義仲の敗死後、父頼朝に婚約者義高を殺されるという悲劇にあいます。この後、頼朝の妹の子一条高能との縁談が持ち上がりますが成立しないままにこの話は終わります。また、彼女の死の直前ごろ後鳥羽天皇への入内の話が宮中の丹後局と頼朝の間で持ち上がっていましたが、この話は大姫の若すぎる死によって実現されることはありませんでした。
大姫の亡くなった日は、慈円の『愚管抄』によって建久8年(1197)7月14日と伝えられています(鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』は建久8年の分が欠けているため確認できません)。享年20歳。
大姫という名は俗称「大姫というのは長女という意味です」、本名は伝わっていません。彼女の兄弟である頼家の幼名が万寿、実朝の幼名が千幡、妹の名が三幡だから、彼女の名もこの系列のものであったろうと推測されますが、「頼朝と政子のいちばん最初の子だから一幡とか...でもねぇ・・・」。
大姫は、鎌倉幕府草創期の犠牲者の1人でもあります。わずか6歳にして、大人の勝手な都合により、11歳の清水冠者義高と婚約させられ、大人達の論理によりその婚約者を殺害されます。この事件が幼い大姫の一生に深い翳りを落とすことになろうとは、当事者の大人達、頼朝や政子は少しも思っていなかったでしょう。大人達は、義高を生かしておけば、頼朝が平家を討つように、いつか父義仲の仇をとるため鎌倉に反旗を翻すだろうという勝手な憶測から、わずか12歳の子どもを殺してしまいます。大姫と義高がいかに仲良くても、子どものことだ大姫はいつの間にか義高のことは忘れてしまうに違いないと考えて...。しかし、大人達の予測に反して、この事件以後大姫は病弱になり、床についたままの状態が続いたといいます。わずか6歳の幼女といえども、大人達から押しつけられた婚約者義高に彼女の持つ精一杯の愛情を向けていたのでしょう。自分の愛情の帰着点である義高を失って、大姫は精神的バランスを崩したのかもしれません、幼い心に焼き付いた義高の面影だけを追い求めて大姫は短い一生を終えてしまいます。一条高能との縁談も、後鳥羽天皇への入内も彼女にとってはなんの意味もありませんでした。一条高能との縁談は、義高を忘れて人並みな幸せを娘に与えてやりたいという両親の願いが感じられますし、後鳥羽天皇への入内の話は、高能でもだめなら現世一の人のもとならばという周囲の気持ちが感じられる(後鳥羽天皇への入内話は裏にきなくさい政治的駆け引きのにおいもしますが...)。しかし、大姫にすれば、「何よ勝手なことばかりしないでよ。わたしから義高さまを奪っておいて、今度はわたし無理矢理結婚させようとするの。わたしはおとなの思惑通りにはぜったいなんないわよ」なんて思っていたことでしょう。結果的に彼女は二つの縁談とも蹴散らしているのだから。高能のときは「高能と結婚するくらいなら、海に身を投げて死ぬ」と言って頼朝・政子を驚かせ、周りの人間には「さすが大姫、義高への想いを貫き通そうとなさっている」と感心されました。この言葉によって高能との結婚は白紙撤回されます。後鳥羽天皇のときは宮中の丹後局の協力が突然得られなくなったこと等々様々な要因がありますが、最終的には大姫自身の死によって入内は実現しませんでした。
大姫の人生を眺めてみると、彼女はいつも「死」への誘惑というものを抱えて生きているかのように思われます。幼いときの人生たった一度の恋人義高の死によって、彼女の人生は始まりから「死」というものと密接でした。死ねば義高と逢えるという想いが彼女の人生を形作っていたのではないでしょうか。鎌倉御所の姫という何不足ない生活も、周囲の彼女への愛情もなにもかもが煩わしいだけのものに見えていたのかもしれません。
彼女にとっては義高がすべてであったのかもしれません。義高に恋い焦がれ、幽界の義高に逢うことだけを楽しみに生きていく...。大姫の生き方を端から眺めれば、なんて寂しい人生だろうと思ってしまいますが、大姫自身はそんな生き方しかできない不器用な人だったのかもしれません。また、そんな生き方をすることで、父母へ義高を殺したことへの贖罪を要求していたのでしょうか。6歳で恋をして大姫は一挙に心が大人へと成長し、その心のまま成長しなかったのかもしれません。たった一度の恋を親に摘み取られ抜け殻になった大姫は、自分の命を削り取るかのように、亡き義高を恋い慕いつつ、わずか20歳の短い一生をとじます。大姫は一般に病死とされていますが、朝廷から鎌倉に派遣された祈祷師に祈り殺されたなんて噂もあったようです「後鳥羽天皇への入内がらみか...?」。
静と大姫 =
静の生い立ち
1185(文治元)年11月17日の夜、源義経の愛人で白拍子{しらびょうし}の静が吉野山の衆徒
僧や僧兵)の捜査線上にみずからあらわれた。同月2日、義経は頼朝打倒に失敗し、都から逃亡している。逃げるには大勢よりも少数のほうが逃げやすい。
義経は静に数多{あまた}の金銀を与え、雑色(ぞうしき,召使の男)の者を静につけ、別れることにした。「数多の金銀を与え…」
(『吾妻鏡』より)というところに義経の静に対する愛情がうかがわれる。しかし、静を護衛すべき雑色が彼女から金銀を奪って逃亡。行くあてもなく雪の中を一人さまようなか、吉野の衆徒に自首、逮捕される。旧暦の11月半ばは今の12月末。 行くあてもなくさまよい、ようやくたどりついた宿房も、冬の夜は厳しく、そして心身ともに孤独で疲れていたに違いない。何かにおびえていただろう。 静はただちに鎌倉へ送られることになった。取り調べのためである。静の鎌倉到着は翌年3月1日。静は義経の行方についての取り調べをうける。しかし、静は知らない」と言い切る。
ここに、時代の波にもまれながらも強く生きる中世の女性を感じる。決して弱々しい姿ではない。
ここで、静の本職である白拍子についてみていきたい。白拍子をひとことで説明するのは難しいが、仏教行事・儀礼などの場で舞いを舞ったり歌を歌う仕事を本職とする女性である。NHKドラマ『太平記』で宮沢りえが演じた藤夜叉{ふじやしゃ}のように諸国をまわり歩くものもいた。また、こうした仏教行事以外にも天皇・上皇や上流貴族が開く宴会でも舞ったり歌ったりした。天皇・上皇の愛人となり、子を生む白拍子も珍しくはない。藤原摂関家(藤原氏の本流で摂政や関白をつとめる家)でも母親を白拍子とする貴族もいる。落ちぶれて体を売って金銭をとる白拍子もおり、これらは遊女{ゆうじょ}と同類とみなされた。源義経と静との出会いについては、それがいつのことかはわからない。しかし、義経が兄・頼朝の命令で京へ軍をひきいて上京し、従兄弟の義仲を討った頃、後白河法皇に招かれた宴会で出会ったとみるほうが自然である。
鎌倉にとらわれの身となった静は、源頼朝の命令で鶴岡八幡宮の社殿で舞いを舞うことを命ぜられる。最初は拒んでいたが、やがて舞うことを決心する。その、運命の4月8日。源頼朝とその妻・北条政子、鎌倉御家人らが見守る中、静は舞う。「よし野山 みねの白雪 ふみ分けて いりにし人のあとぞ恋しき」 これを聞いた頼朝の顔色が変化する。続いて「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」と静はうたう。頼朝は怒り、「この祝うべきところで反逆者の義経を慕い、別れの曲を歌うとはふとどきである」といったところ、政子はそれをたしなめる。「あなたが流人だった頃、私は父が決めた結婚相手を拒み、あなたのところへ駆けつけたのですよ。そうした私には、義経を想う静の気持ちは理解できます」この時、静は妊娠7ヶ月。義経の子である。その子が男ならば殺される。
晩年を生きる少女・大姫
静が鶴岡八幡宮で舞い、義経の子を生むまでの間、静と深い絆で結ばれた1人の少女がいた。頼朝と政子の長女・大姫である。寂しく過ごす静を訪れて慰める10才のこの少女は、すでに晩年を生きていた。大姫は7才の時、婚約者であった源義高(義仲の息子。都に入った義仲が人質として鎌倉に差し出していた)を父・頼朝によって殺されている。頼朝が義経に命じて義仲を討った時である。大姫や政子は義高を女装させて逃がしてやるが、頼朝はこれを許さず、家来に命じて入間川(埼玉県)のほとりで殺している。大姫はその後も心身ともに病におちいり、父母に先立ち、20才で世を去ることになる。静が生んだ子供は男の子だった。頼朝の命令をうけた安達清経によって、その子は生まれると即座に由比ヶ浜{ゆいがはま}にすてて殺された。その後の静についての消息はいっさいわからない。没年(死んだ年)もわからない。
こうした2人の女性の最大の敵は、勃興しつつある家父長制(父親を中心とする男中心の社会・家族制度)であった。家父長制が、大姫の婚約者を、静の子供を、そして2人の女性を殺したのである。つまり、武士を中心とした武家政権(鎌倉幕府)の誕生が、多くの女性を殺したのである。
ここで、私のお友達のよりちゃんと、海ちゃんの掲示板への書き込みを転載します。
よりちゃんは社会科の先生を目指している大学生です。
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[211] 大姫考
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投稿者:より -22-[大マゼラン星雲]
投稿日:2001年05月24日(木)13時00分
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「より」にとって、大姫は娘も同然なのです、なんたって「より」ですから。(^^;
はっきり申しますと・・・うちのかわいい大姫を義高なんぞ田舎ぼんに取られてたまるかいな!!という所です。
さて大姫は精神的な病気であったとも言われていますよね、つまり「障害者」であった可能性もあるとも、私は思っています。
7〜20歳までの間、恨みを持ちつづけると言うことは彼女は意地っ張りな子で不器用だったのかも知れませんね。
反抗期でもあったのかも。
よりは10歳以下では恋愛経験がないのですが、今恋人ができてみて思うことは
親と恋人どちらか選ぶなら恋人、ということです。親は煙たい(^^;
ま、「より」からしてみれば義高との婚約なんて認めてませんけど。(意地悪)
彼女の本名ですが、「無かった」というのも私の考えているところです。
妹は「三幡」ですが、それも本名とは言い切れないのではないでしょうか??
古典など読んでいると成人前の女の子は大姫・中姫・小姫・乙姫・二の姫などと出てくるのです。
母親は「政子」という名です、きっと2人とも成人するまで生きていたら○子といった名前が付いたのかも。
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より -23- |
重要な事を書き忘れました。(^^; 『吾妻鏡』は大姫を悲劇の人に仕立て上げなければならなかった理由があると考えられます。つまり、同書は北条氏によって書かれたものなので、源頼朝を悪者扱いしなければなりません。これを踏まえて考えると、大姫は本当にただただ病弱なだけであったのかも知れないのです。どっちにしろ、娘には幸せな人生送ってもらいたいのよね、より的には・・・。
2001年05月24日(木)18時09分 |
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海 -19- |
そうですか、大姫の名前がなかった、(必要がなかった?)・・・というのも面白いですね(^-^)。ところで「三幡」という名前は吾妻鏡などの当時の資料に載っているものなのでしょうか?個人的には乙姫という呼び方が好きですが。大姫か三幡のどちらかが入内していたら○子という名前が歴史に残っていたでしょうね。
2001年05月24日(木)21時31分 |
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愛樹 -314- |
うーーん、なるほど。この話し、そのまま大姫のところに載せてもいいかな?
2001年05月25日(金)04時53分 |
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より -24- |
大学の図書館に『吾妻鏡』置いてあるので調べてみますね。>海さん
2001年05月25日(金)14時43分 |
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より -25- |
OKです、これは完全に私の文章なので著作権とかもないですよ〜>愛樹ちゃん
2001年05月25日(金)14時44分 |
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海 -20- |
ありごとうございます。(^o^)おねがいします<(_
_)>よりさん。 2001年05月25日(金)21時28分 |
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愛樹 -315- |
了解しましたぁー。今日の夜更新するからね、載せてるね。ところで月曜日から中間テストやー、成績も貼りだされるからなぁー。頑張るぞぉ。
2001年05月26日(土)05時11分 |
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文治元年一月六日
六日乙酉。行家。義経於大物浜乗船之刻。疾風俄起而逆浪覆船之間。慮外止渡海之儀。伴類分散。相従予州之輩纔四人。所謂伊豆右衛門尉。堀弥太郎。武蔵房弁慶并妾女(字静。)一人也。今夜一宿于天王寺辺。自此所逐電云云。今日。可尋進件両人之旨。被下 院宣於諸国云云。
文治元年十一月十七日
十七日丙申。予州籠大和国吉野山之由。風聞之間。執行相催悪僧等。日来雖索山林。無其実之処。今夜亥剋。予州妾静自当山藤尾坂降到于蔵王堂。其体尤奇怪。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。静云。吾是九郎大夫判官(今伊予守)妾也。自大物浜予州来此山。五ケ日逗留之処。衆徒蜂起之由依風聞。伊与守者仮山臥之姿逐電訖。于時与数多金銀類於我。付雑色男等欲送京。而彼男共取財宝。棄置于深峰雪中之間。如此迷来云云。
文治元年十一月十八日
十八日丁酉。就静之説。為捜求予州。吉野大衆等又踏山谷。静者。執行頗令憐愍相労之後。称可進鎌倉之由云云。
文治元年十二月八日
八日丁巳。吉野執行送静於北条殿御亭。就之。為捜求予州。可被発遣軍士於吉野山之由云云。
文治元年十二月十五日
十五日甲子。北条殿飛脚自京都参着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先点定之。同意悪事之輩。当時露顕分。不逐電之様廻計略。此上又申帥中納言殿畢。次予州妾出来。相尋之処。予州出都赴西海之暁。被相伴至大物浜。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。予州自此逐電。于時約曰。今一両日於当所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云云。相待之処。送馬之間乗之。雖不知何所。経路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而着蔵王堂之時。執行所虜置也者。申状如此。何様可計沙汰乎云云。」若公御平愈云云。
文治元年十二月十六日
十六日乙丑。去七日所被副上洛御使之黒法師丸自途中帰参。申云。雑色浜四郎至駿河国岡部宿。俄病悩。心神失度。待平愈之期。雖経両日。当時起居猶不任其意。況難向遠路云云。依之不廻時剋。被差上雑色鶴次郎。生沢五郎。黒法師丸猶所相副也。又被遣北条殿御返事。静者可被召下云云。
文治二年二月二十九日
廿九日戊申。予州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進静女之由。被仰北条殿云云。又此事尤可有沙汰由。付経房卿令申給云云。
文治二年二月十三日
質十三日辛酉。当番雑色自京都参着。進北条殿状等。静女相催可送進。又正月廿三日。同廿八日。洛中群盗蜂起。則搦獲之。去一日。十八人梟首畢。経数日者。似刑寛之間。不及召渡使庁。直致沙汰云云。
文治二年三月一日
三月小。一日己卯。諸国被補惣追捕使并地頭内七ヶ国分。北条殿被拝領畢。而深存公平。去比上表地頭職。其上重被付書状於帥中納言。黄門又付定長朝臣被奏聞之。
院進御物之脚力可罷下候之由所申候也。以去廿八日。三ヶ度御返事。纔一通進覧之由。賜御教書候畢。而件脚力不能賜御返事罷下候。所恐申也者。抑一日参拝之時。七ヶ国地頭職之条。雖令言上候。未承分明之仰。罷出候畢。仍於時政給七ヶ国地頭職者。各為令遂勧農候。可令辞止之由所令存候也。於惣追捕使者。彼凶党出来候之程。且為承成敗。可令守補之由所令存知也。凡国国百姓等兵糧米使等。寄事於左右。押領所所公物之由。訴訟不絶候也。且糾明如此等之次第。若兵糧米有過分者。即糺返件過分。又百姓等令未済者。計糺田数。早可令究済之由。尤可蒙御下知候。兼又没官之所所。蒙 院宣并二位家仰候之間。可令見知之由。同所令存也。以此由可令言上給候。時政誠惶誠恐謹言。 三月一日 平時政(申文) 進上 大夫属殿
今日。予州妾静依召自京都参着于鎌倉。北条殿所被送進也。母礒禅師伴之。則為主計允沙汰。点安達新三郎宅招入之云云。
文治二年三月六日
六日甲申。召静女。以俊兼盛時等。被尋問予州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。静申云。非山中。当山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。称可入大峰之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居辺之処。女人不入峰之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雑色等取財宝。逐電之後。迷行于蔵王堂云云。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。与今口状頗依違。・任法可召問之旨。被仰出云云。又或入大峰云云。或来多武峰後。逐電之由風聞。彼是間定有虚事歟云云。
文治二年三月二十二日
廿二日庚子。静女事。雖被尋問子細。不知予州在所之由申切畢。当時所懐妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云云。
文治二年四月八日
八日乙卯。二品并御台所御参鶴岡宮。以次被召出静女於廻廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之処。申病痾之由不参。於身不屑者「者」。雖不能左右。為予州妾。忽出掲焉砌之条。頗恥辱之由。日来内内雖渋申之。彼既天下名仁也。適参向。帰洛在近。不見其芸者無念由。御台所頻以令勧申給之間被召之。偏可備大菩薩冥感之旨。被仰云云。近日只有別緒之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖廻白雪之袖。発黄竹之歌。左衛門尉祐経鼓。是生数代勇士之家。雖継楯戟之塵。歴一臈上日之職。自携歌吹曲之故也。従此役歟。畠山二郎重忠為銅拍子。静先吟出歌云。
よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。
次歌別物曲之後。又吟和歌云。
しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。
誠是社壇之壮観。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮宝前。施芸之時。尤可祝関東万歳之処。不憚所聞食。慕反逆義経。歌別曲歌。奇怪云云。御台所被報申云。君為流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北条殿怖時宜。潜被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戦場給之時。独残留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今静之心。忘予州多年之好。不恋慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露胆。尤可謂幽玄。枉可賞翫給云云。于時休御憤云云。小時押出(卯花重。)於簾外。被纏頭之云云。
文治二年五月十四日
十四日辛卯。左衛門尉祐経。梶原三郎景茂。千葉平次常秀。八田太郎朝重。藤判官代邦通等。面面相具下若等。向静旅宿。玩酒催宴。郢曲尽妙。静母磯禅師又施芸云云。景茂傾数盃。聊一酔。此間通艶言於静。静頗落涙云。予州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。為御家人身。争存普通男女哉。予州不牢籠者。対面于和主。猶不可有事也。況於今儀哉云云。」廷尉公朝自京都参着。所帯 院宣等也。以知家宿所為旅館云云。
文治二年五月二十七日
廿七日甲辰。入夜。静女依大姫君仰。参南御堂。施芸給禄。是日来有御参籠于当寺。明日満二七日。依可退出給。及此儀云云。
文治二年閏七月二十九日
廿九日庚戌。静産生男子。是予州息男也。依被待件期。于今所被抑留帰洛也。而其父奉・背関東。企謀逆逐電。其子若為女子者。早可給母。於為男子者。今雖在襁褓内。争不怖畏将来哉。未熟時断命条可宜之由治定。仍今日仰安達新三郎。令棄由比浦。先之。新三郎御使欲請取彼赤子。静敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及数剋之間。安達頻譴責。礒禅師殊恐申。押取赤子与御使。此事。御台所御愁歎。雖被宥申之不叶云云。
文治二年九月二十二日
十六日己未。静母子給暇帰洛。御台所并姫君依憐愍御。多賜重宝。是為被尋問予州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。産生之程所逗留也。
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