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平家の落人伝説 椎葉村
那須与一の弟と鶴富姫
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もうひとつ紹介した東祖谷山村もそうですが、こここもまた秘境の村です。
「椎葉村はその山のあなた中央山脈の内で、肥後の五箇荘とも嶺を隔てて隣である・・・村の大きさは壱岐よりはるかに大きく隠岐よりは少し小さい。しかも村中に三反と続いた平地はなく、千余の人家はたいてい山腹を切り広げておのおのその敷地を構えている・・・」
その昔、椎葉村と出会い、民俗学誕生のきっかけともなった柳田国男の「後狩詞記(のちのかりことばのき)」に描かれている椎葉像です。山また山、村の96%が山林。幾重にも重なる山々に囲まれた奥深い山中に椎葉村はあります。
また、このそびえたつ山々にはドングリなどでおなじみのブナ林が発達していて、その林床には約300種の珍しい草花が見られるといいます。例えば、尾根筋を歩くと、県内では唯一のナンゴククガイソウのお花畑が見られ、扇山にはシャクナゲの群生が広かります。エノハ(ヤマメ)が生息する渓谷に目を向けると、沢ぞいには清流でしか育たないワサビが白い花を咲かせ、渓流の珍味といわれるカワノリや岩壁に群生するイワタケもこの辺りが日本最南限の自生地です。
また、リスやノウサギ、シカ、イノシシに出会えるかもしれません・・・こわいけど。珍しいのはアカヤマドリとコシジロヤマドリ。この両方が同じ地域に生息するのは、日本中でこのあたりだけだそうです。あるいはコキマダラセセリ、アカシジミ、ヒメキマダラヒカゲ…とか・・図鑑で調べてみましたがよくわかりませんでした(^_^;)それだけ珍しいのかなぁ・・・っていう蝶々がいたりします。
そして平家伝説を語る上で宮崎県椎葉村は避けることができません。例えば、椎葉村は美しい渓流が流れていますが、ここに見られるホタルは源氏ボタルより平家ボタルが圧倒的に多くて、また、山には平家カブがたくましく自生しているなど、圧倒的に平家優勢の自然を見ることができます・・・ってまぁ落人伝説から名前をつけたのかもしれないですけど。
伝説といえば、春に一斉に花開くエドヒガン、いわゆる山桜ですけど、この真っ白に咲き誇る様子を源氏の白旗と見間違えて、自害した平家の一行もいたとか。御池がその「平家自刃の地」。十根川神社脇の「八村杉」にも伝説ロマンが漂います。平家の落人を追討に来た那須大八郎が植えたといわれ、樹齢800年、高さ54m、根回り19mという堂々たるものです。
そしていよいよ、「鶴富姫恋物語」です。
およそ800年前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たち。追っ手を逃れて各地のふところ深い山奥へ・・・
古文書「椎葉山由来記」はこんなふうに伝えています。
日州椎葉山わ奈須山共申(もうす)。其謂わ元暦の昔平家の軍勢長門の国於いての趣、安徳天皇お始め奉り二位女院並に一門の諸将入水共もなされ不残亡失いたされし由、諸々の家にて記録等にも有之候処、入水の内存命の面々申謀り時節を待ち、命全ふし何卒安泰の地を求め山深く忍隠れ天運の至る時を待つに、若(し)くわなしと豊後国玖珠の山に分け入り留る。今に至り平家山と云い伝ふ、去れ共山浅く鎌倉に知れあらわれむ事を怖れ、肥後国阿蘇路を経て当国に迷ひ来て此山中に暫時を過す処、頼朝公聞召に及給ひ奈須与市宗高は八嶋の戦場に弓勢をあらわし、平家方の軍兵恐れをなすと聞伝ふ。此際平家残党一人たり共生けて置間敷くと宗高に西国出陣を命ずるに、宗高私儀八嶋の戦場にて疾風に当られ、其時よりしていかなる痛に哉。当時矢先覚束なく奉存候。然るに私弟大八郎宗久と申者当年廿二才の的(まと)の稽古仕候に、壱本もあだ矢無殊に私より大兵に生れ力飽く迄強く強弓好に候へば、此度九州に御差し遊被候ても、慥と奉存候。当時迄何の役も相勤の儀も無是候へば如何有是候哉と言上致するに、頼朝公聞召され是際大軍を催するに不及。先する時は一人たり共征する事無、片時も早く出陣致し、目出度帰陣の時は鎌倉に申出可旨被仰。即ち与市宗高領地に帰国致し舎弟大八郎宗久に主君頼朝公の御諚を伝ふ、大八郎大に悦び兄宗高次男宗昌等手勢引具し、海陸を経て九州江下り、平家の残党を尋ね、肥後国阿蘇より日向の境迄来たりし時山嶮しく馬の通るよすがなく、詮方無く此処より馬を乗捨登山する。即ち大八郎鞍を置去り故、誰れ云ふとなく鞍置村と呼びなせしを何時とはなく今は鞍岡村と呼びにける、時恰も元久弐年宗久等山又山を攀ぢ上り向山と云ゑる処に詰よせ討亡す。落延る平家日肥之境五ケ荘と云ゑる五谷に逃れ深く忍び民家に落下り、椎樫の実を拾鳥獣を討て食事となし、山畑を開き耕作を業となし渡世を営み候へ共、馬の通ひは不及申、或は木の根をたより藤の橋を拵へなどして漸く五ケ谷の往来の通路有之。至極険城の隠れにて数十年知る者なかりしに折々塩を求めに町場に出、怪しき人柄諸人のふしんなし、御公儀様へ洩れ聞ゑ今五六十年以前御吟味仰付、五ケ荘の惣地頭権之丞祖父平家重代の唐波と云ゑる鎧差上候由承り伝ゑ候、今此山椎葉山と申て奈須大八郎宗久暫時の陣小屋、椎の葉を以て風を防ぎ、誠に椎葉山なりける由、夫れ以前は山の名やなけん、大八郎宗久住居跡有之。在所は今に至り上椎葉下椎葉と申候。又奈須山と呼なしたると伝へ、然るに大八郎入山以来三年の星霜を経て、此間平家の残党諸々に散在成と雖も、再挙の見込無耕作を業とし、斯かる故に敵として討つに不忍。又大八郎宗久敬神の念深く平家残党の為め上椎葉に特に平氏の崇敬する厳島神社を勧請し、滞陣中見廻り中に風景に富む戸根川の小丘陵に目を止め、我が国最古の諸神を祭り、其傍に大八郎宗久当地に下向の砌り(みぎり)、途中京都清水寺に参詣の節、観音菩薩の御守りを買(負)仏として崇拝せしを安置し、此祭神今に至る迄も戸根川神社に祝ひ祭る。又此社の傍に我が国希に見る大杉有り。是れ大八郎宗久の手植の杉と云ひ伝ゑ来り、此処の大栃の木は神の御手植とて鬱蒼として林をなし、戸根川神社の顕著なる神徳と云ひ、また巍然(ぎぜん)として立つ大杉大栃を見ても神々しき事思ひはかれり、さすが源氏の重臣大八郎宗久平氏残党の為め上椎葉に厳島神社を勧請し、又当地に来り彼等の武運長久を祈る為めに戸根川には諸神を祭る英勇之心事之程や思ひ知られたり、大八郎此滞陣中も早平家の残党愈々再起の見込無きに極り、鎌倉殿の御意を受け帰国の節、召使の侍女鶴富と云ゑるなん大八郎の寵を受け其節懐胎せり、大八郎言ゑるに軈て(やがて)安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越す可(べし)、女子なる時は其身に遣す。何れにせよ親子の証拠にとて天国の太刀に系図を写差添ゑ、彼侍女鶴富に渡し帰国致被候処、至極安産取上見れば女子出生、此侍女奈須家の血脈を大切に思ひ娘に聟(むこ)を貰ひ養育し、奈須何某と名乗り、子孫相続して耕地を業とし不足の年は葛蕨の根を食事となし、已(すでに)拾余代を経、奈須玄蕃と申者の代となり、男子四人持ち摘子左近二男弾正三男将監四男九郎右衛門、城に随ひ系図の面を柔懐し、何卒先祖の家業を再起せんとの密談、余(世)の人口を恐れ山にて談合の上夫々臍を堅めける、此処今に至り断の尾立と申候。
・・・はぁ・・・疲れたぁ、手がもう動かへんわ
要約すると・・・
「道なき道を逃げ、平家の残党がようやくたどり着いたのが山深き椎葉だった。しかし、この隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れ、那須与一宗高が追討に向かうよう命令される。が、病気のため替わって弟の那須大八郎宗久が追討の命を。こうして椎葉に向かった大八郎、険しい道を越え、やっとの事で隠れ住んでいた落人を発見。だが、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、哀れに思い追討を断念、幕府には討伐を果たした旨を報告した」
ふつうならここで鎌倉に戻るところです、大八郎は屋敷を構え、この地にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農耕の法を教えるなど彼らを助け、協力しあいながら暮らしたといます。やがて平清盛の末裔である鶴富姫との出会いが待っていました。
庭の山椒の木鳴る鈴懸けて
鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ
鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ
駒に水くりょというて出ましょ
いつしか姫と大八郎にはロマンスが芽生えました。「ひえつき節」にもあるように、姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に逢瀬を重ねるような・・・。大八郎は永住の決心を固め、村中から祝福されます。ところが、やがて幕府から即刻兵をまとめて帰れという命令が届き、夢ははかなく・・・。
和様平家の公達流れ
おどま追討の那須の末よ
那須の大八鶴富おいて
椎葉たつときゃ目に涙よ
このとき鶴富姫はすでに身ごもっていました。しかし仇敵平家の姫を連れていくわけにもいかず、別れの印に名刀「天国丸」を与え、「生まれた子が男なら我が故郷下野の国へ。女ならこの地で育てよ」と言い残し、後髪をひかれる思いで椎葉を後にするのです。
生まれたのはかわいい女の子。姫は大八郎の面影を抱きながらいつくしみ育てました。後に婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。
それにしても、なぜ大八郎は平家の落人を発見したとき、すぐさま討伐しなかったのでしょう。それほど哀れな姿に映ったのでしょうか。それだけなら、とどまることなく黙って引き返してもよかったはず。椎葉に魅せられた作家のひとり、吉川英治氏が「新・平家物語」の中で、椎葉をこの世の理想郷として描いているのが、ひとつの答えかもしれない、敵も味方もない。富も権力も意味を持たない、戦い、憎しみあってきた源氏と平家の間に美しい恋さえ芽生える。人間はなぜ争うのか、という問いかけを、椎葉での鶴富姫と那須大八郎の物語に託しています。いってみれは、戦うのがナンセンスなくらい自然が雄大で、近くに敵がいるのに住んでみたいと思わせるほど温かく迎えてくれる条件が揃っていたということでしょう。
そしてこの悲恋の二人を偲んで、毎年11月には「椎葉平家まつり」か盛大に行われます。祭りは鶴富屋敷の「法楽祭」から。かがり火が揺らめく中を、恋物語の主役鶴富姫と那須大八郎が再会します。色鮮やかな十二単と武者姿に。「来た甲斐があった」「歴史のなかに迷い込んだよう」「明日からが楽しみ」と、どの声も感心することしきりです、2日目、3日目は村のメーンストリートを十二単の平家方・鶴富姫と源氏方・那須大八郎がよろい姿の騎兵と一緒に練り歩きます、祭りのハイライト、「大和絵巻武者行列」がそれ。豪華な時代絵巻に沿道から拍手喝釆です、「ひえつき節踊り」や「臼太鼓踊り」「山法師踊り」などもパレードをにぎやかに盛り上げます。歩き疲れたら、「秘境の名物」や特産品コーナーでちょっとひと息。タ方からは民謡と神楽による郷土芸能も。こうして伝説ロマンが甦る3日間、山里は平家と源氏に占領されます
日向市から国道327号線を椎葉村に向かうと、距離は75キロ、日向の市街地を出て十数キロ走ると国道は耳川に平行するようになります。耳川は椎葉村を囲む山々をみなもととし、日本最初のアーチ式ダムとして知られる上椎葉ダムを経由して日向灘に注ぐ川です。また、この国道327号線は耳川水系を利用した電源確保に乗り出した住友が椎葉村に寄付した100万円を使って昭和8年に完成した道路で、現在でも「100万円道路」の愛称で呼ばれています。
国道を椎葉村に向かうにしたがって次第に道幅は狭くなり、途中には車同士の離合ができない地点が多数あります・・・っても、観光ガイドに書いてあっただけで私が行ったわけやないけど(^_^;)また、道路の改良工事が各所で行われており、時間を決めての完全通行止め区間もあり、現代においても「秘境」の香りがします。・・・とも書いてありました。
最初に平家落人伝説に登場する鶴富姫が暮らしたという「鶴富屋敷」を。鶴富屋敷は街のはずれの小高い位置にあります。建物そのものは鶴富姫の時代から建て替えられているとのことですが、建築様式はこの地に古くから伝わる「並列型民家」、すなわち川沿いに建つ民家のように奥行きはあまりなく横に長い構造をしており、家屋前面に縁を横一列に設けたものです。もちろんこれは平地が少なく傾斜をうまく利用するために考えられた形式です。現在は建物の中に上がって録音テープによる解説を聞きながら室内を見学をすることができます。この家の間取りは左から「ござ(21畳)」「でい(24.5畳)」「つぼね(14畳)」「うちね(17畳)」「どじ」の5つの部屋を設けています。「ござ」は神仏を祭る神聖な場所で、昔、女子は不浄なものと考えられ立ち入りできませんでした。「でい」は一番広い部屋で客間として用いられ冠婚葬祭などの行事もここで行われました。「つぼね」は夫婦部屋でお産の部屋ともなりました。「うちね」は茶の間。「どじ」は土間のことで、雑穀をつく唐臼と大小の石造りのかまどがあります。
「でい」は「なげし」とよばれる敷居状の構造で部屋が2分されていますが、このなげしより上座を「おはら」下座を「したはら」と呼び、これは身分の上下を区別するために設けられた物で、庭にむしろを敷いて物を言った時代の名残だそうです。現在は各部屋とも畳が敷かれていますが、本来は板の間で、各部屋にいろりが設けられています。各部屋の縁とは逆の方向(上座)はすべて戸棚が作りつけられ、これらはほとんどケヤキの一枚板で長年丹念に磨き上げられ、美しい小豆色を醸し出していて家の歴史を忍ばせます。現存しているこの家屋がいつの時代のもであるかの明確な資料は見つかっていませんが、建築技術等から約300年前のものと思われます。
また、屋敷のすぐ脇には鶴富姫の墓とされる墓石が現存しています。椎葉村観光協会によって立てられた解説板を引用します。「寿永の昔、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は四方に逃れ、その一部は山深き、日向国椎葉山中へ分け入り、ここを隠れ里と定めた。ところがこのことを知った鎌倉幕府は平家追討の命を「扇の的射」で知られる那須与一宗高に与えたが、与一は病のため、替わってその弟大八郎宗久に追討を命じ、日向の国に下向させた。世の功業戦宝も振り捨て唯谷川のせせらぎで鳥の声を慰めとして一途に山の庵に渡世する衰微した落人を目の当たりにした大八郎は深く哀れみ、平家尊々の厳島神社を椎葉山中に祀るなどして平家の人々を徳を持って導いた。滞在3年、大八郎は平清盛の末族と言われる鶴富姫と恋仲になり、やがて鶴富姫は大八郎の子を宿したが、運命の訪れは非情で鎌倉幕府により大八郎に帰還の命令が下った。悲しみに暮れる鶴富姫に大八郎は名刀天国丸とお墨付きを与え、『その方の懐妊我覚えあり 男子ならば本国下野に差越すべし 女子ならば遣すに及ばず 宜敷く取計るものなり』と住み慣れし山里を後に鎌倉に向かい出立した。鶴富姫は月満ちて女子を産み、婿を迎えて那須下野守と名乗らせ、その一族が長く椎葉を支配したと伝えられる。」
国道から鶴富屋敷に登る途中に「化粧の水」というのがあります。これは鶴富姫が化粧に使ったと言われる湧き水で、今でも岩の間から水がわき続けています。ちなみに大八郎の「その方の懐妊我覚えあり」の言葉はなかなかなんというかその・・・。
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