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天才の影に徹した大将軍
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政治面の天才源頼朝と軍事面の天才源義経傑出した天才の兄と弟の間にあって
常に凡庸、無能と評されてきました
例えば「源平盛衰記」に『蒲の冠者の将軍様、九郎御曹司には雲泥を論じて劣り給へりとて
、搦め手にぞ付きにける』
これは一ノ谷の合戦の時は畠山重忠が500騎ほど率いて範頼の麾下に加わっていました
が合戦間際に範頼の許しも得ずに勝手に義経の軍に移ってしまった事を記しています
これはどうせ戦うなら名将の許でということでしょう。
このように範頼の能力を低くみたものが「平家物語」にも『三河守範頼、やがて続いて
攻め給はば、平家は滅ぶべかりしに、室、高砂にやすらひて、遊君遊女ども召し集め
遊びたはぶれてのみ月日を送られけり・・・・・ただ国のついへ、民のわづらひのみあって
今年も既にくれにけり』
しかし
実際の範頼はどうだったのでしょうか
まず範頼は頼朝は三男で「正室の子ですから正嫡子です」義経が八男です「これは九男
としている文献もあり、異説もありますが、本来八男ですが、叔父の鎮西八郎為朝に
遠慮して九郎を名乗っています」範頼はその間の六男です、そして義経も側室の常磐
という雑司女の子ですが、範頼も東海道筋の池田宿の遊女の子なのです
もちろん生母の名前もはっきりしませんし、範頼自身の生年もはっきりしていません
誕生地は遠江国蒲御厨と伝わっていますから、後年それにちなんで蒲冠者とか
蒲御曹司と呼ばれています。
それでは彼の働きぶりを。
寿永2年に木曽義仲が院政を停めた時、頼朝は義仲追討軍を上洛させました。
追討軍は、総勢六万余騎、大手と搦め手の二軍に分けられて、大手は琵琶湖沿いに
近江瀬田から、搦め手は伊勢、伊賀を経て山城宇治からそれぞれ京都に攻め込む
事なりました、義仲も主戦場は瀬田とみて、今井四郎兼平を瀬田に派遣しました。
この時、追討軍大手の大将軍として、瀬田に向かったのは、義経ではなくて
範頼です。 義経が任じられたのは、搦め手の大将軍でした。
大軍同士の戦いはたいてい、大手が睨みあっているうちに、搦め手が破れて
勝負が決します、
この一戦もそのような展開で、京都の一番乗りは義経の方でした。
範頼もやや遅れて瀬田の防御線を突破して、京都に進撃しましたが、二番乗りでは
戦いの実状を知らない世間の評価は低くなります。
この一戦を境にして、義経は名将、範頼は凡将という評判がたちはじめました。
しかしまあ、大手搦め手の共同作戦よって義仲軍は京都から退却しまた義仲も戦死
することになりました。そしてその義仲を討ち取ったのも義経の電撃作戦の結果だったので
ますます、は範頼の評価は下がってしまいました。
そして、そのころ源氏の同士討ちをチャンスとして、西国の平氏が一ノ谷まで進出してきて
いました。
範頼、義経は一戦の疲れを癒す間もなく、頼朝の命により、一ノ谷へと出陣します。
源氏軍はやはり、大手と搦め手の二軍に分けられて、同じく大手に範頼、搦め手に
義経という布陣なりました。平家物語や源平盛衰記によると「たぶんオーバーな
数ですが」大手の源氏軍5万余騎、平家軍の主力10万余人・・・
さて、範頼は平氏が念入りにこしらえた強固な防御陣地に待ち構える10万余人の
生田の森に押し寄せました。
この陣地の事を源平盛衰記は「東は生田の森を城戸口とし、西は一ノ谷を城戸口とする
其の中三里は、須磨、板宿、福原、兵庫、明石、高砂、隙なく続きたり、北は山の麓、
南は海の汀、人馬の隙ありと見えず、陸にはここ彼処に掘を掘り、逆茂木を引き
二重三重に櫓を掻き、垣楯を構えたり。海上には数万艘の船を浮かべて、浦々島々に
充ち満ちたり。一ノ谷と云うところは口は狭くして奥広し。・・・・・誠に由々しき城郭なり」
と記しています。
海と山という天険に守られた、三里ほどの地に隙間無く兵を配して、海には数万の船を
浮かべているのだから、これはもう鉄壁の守りといえます。
当然、範頼麾下の坂東武者は先陣の名誉を争って切り込みましたが、その度事に
平氏の鉄壁の防御戦にはじき返されるばかりです。
大手の戦況は次第に膠着していきました。
そんなとき、膠着状態をうち破り平氏を一挙に敗勢に追い込んだのは、あの有名な
義経の鵯越の逆落としです。天険を頼んでその方面の守りをおろそかにしていた
平氏軍は思わぬ敵勢の出現にすっかり浮き足だって、多くの戦死者を残して海上に
逃れました。その結果、この一ノ谷の合戦の最大の殊勲者は、義経という事になりましたが
しかし、範頼が平家主力の攻撃に耐えかねて、早々と敗退していたら・・・
そうでなくても、平家主力を十分に引きつけ五分に戦っていなければ、どうでしょう・・・
そんなところに、義経がいくら奇襲とはいえ、10万の平氏軍のなかにわずか数十騎
でなにが出来るでしょうか・・・圧倒的大群の平氏軍に反対に押し返されあっというまに
討ち取られることでしょう。この奇襲戦法は範頼が平氏の主力と互角に戦い、また気持ちを
大手軍に引きつけていたからこその成功であり、また義経が範頼の大手軍の将としての
能力を熟知していたからこそ決行できた戦法なのです、これは義経の機動戦法の名手
範頼の主力対決の消耗戦の名手としての互角の力量の共同作戦のたまものなのです。
それは、この戦いを冷静に観察していた、頼朝の二人に対する論功行賞でも明らかです
そして範頼は九州の平氏勢力を鎮圧し、平氏主力を瀬戸内方面に孤立させるため
義経と別行動を取ることなりました、、
その途中、範頼は平資盛を大将軍とする、「源平盛衰記では平行盛」平氏軍と戦い、
海中に追い落としています、しかしこの快勝も「平家物語」「源平盛衰記」ともに
部下の佐々木盛綱の手柄としていますが、しかし戦勝は将の働きよりも部下の
手柄ということにすると、はたして、軍事に関しての頼朝に評価はつくのでしょうか・・・
範頼はそれからさらに山陽道を進み、豊後に渡っていますから、屋島の合戦には
参加していません。範頼の豊後入りを迎えて、九州の平氏勢は早速攻め寄せてきましたが
、範頼はこれを葦屋浦に迎え撃ち、壊滅的な打撃を与えました。
そしてその一ヶ月半の後壇ノ浦の戦いが始まりましたが、この時も主役は義経であり、
範頼は直接は参戦していません、ですが九州を押さえて平氏の退路を断ち、平家軍は
壇ノ浦で玉砕せざるを得なくした、範頼のバックアップも大きな勝因なのです。
そして範頼はこの後も豊後に留まり、九州方面の戦後処理や残党狩りにあたり、
十月に鎌倉に凱旋しました・・・
がその間に新たな問題が・・・頼朝と義経の対立です。・・・そして頼朝
は義経の討伐を範頼に命じましたが、ここまでことごとく頼朝の命令に従ってきた
範頼はさすがにこの命令には応じかね固辞し続けましたが、このときに
平家物語によると、「和殿も九郎のまねし給ふよな」と冷たくいやみを言われ、はじめて
頼朝の不興を買いました。
しかし範頼も、結局義経と同じように頼朝に疑われ、何の異心もなく、自身の名声を
求める事もしない実直な範頼も疑心暗鬼の頼朝にかかり、起請文もむなしく
梶原景時に攻め込まれ奮戦むなしく自害します。「ここらのいきさつは省略、そしてじつは
このときの範頼は身代わりだったという、範頼逃亡説もあります」。
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