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和田合戦
建暦三年五月二日・三日
建暦三年二月十五日、意外の事件が発覚しました。
きっかけは信濃の国住人で青栗七郎の弟で僧侶の阿静房安念が、千葉介成胤に捕らえられたことから
始まります。安念がなぜ捕らえられたかは、「吾妻鏡」やそのほかの当時の記録にも詳細についての
記録はありませんが、
千葉介成胤に謀反に荷担するように説得に行ったところ、成胤はその陰謀にあきれて安念を執権北条
相模守義時のもとに連行しました。義時は安念を調べた結果、将軍家にとっても北条家にとっても
重大な大陰謀であることに驚き、大江広元と相談した結果、詳しい真相究明の為に安念坊の身柄を
検非違使山城判官行村に引き渡しました。
その結果信濃国住人泉小次郎親衡が建暦元年頃から密かに謀反を企て、百三十余人に上る御家人を語らって
二代将軍頼家の遺児で尾張中務丞の養子になっている千手王「千寿」を擁立して三代将軍実朝を倒そうという
計画が進められている事がわかりました。しかも参画した者の中には幕府内での錚々たる顔ぶれも含まれて
います。義時も事の重大さに驚きました。判明した人名の者は直ちに翌十六日には一網打尽にして召還して
それぞれ重臣の屋敷へ禁固しました。義時が手を打ったのも迅速です。
泉親衡は、源満仲の弟満快の子孫で名門であり、また剛勇をもって知られていましたが、北条氏の
独断専横を深く憎んでいましたので、かねてよりの陰謀でした。
義時は直ちに兵を派遣して親衡を捕らえようとしましたが、親衡の奮戦で行方をくらましてしまいました。
さてさてこのクーデター計画の参画者に、和田義盛の息子をはじめとする一族の者が含まれていました。
この時、侍所別当の重職にある和田左衛門尉義盛は、領国の上総の国伊北庄に行っていました。
子息義直・義重および弟の子胤長が、この陰謀に参加していて捕らわれたとの知らせに驚き、慌てて
鎌倉に戻ったのが三月八日です。事件発覚から二十日余りを経過しています。義盛は御所に伺候して
将軍や執権義時に必至の歎願釈明を行った。祖父以来の忠勤を認められて、息子の四郎左衛門尉義直と
五郎兵衛尉義重が許されることになつたので、地位と立場を十分考慮に入れた恩免と面目を施して
喜んで退出しました。息子が許されたので当然弟の子の胤長も許されると思ったのか、一応引き下がったのか
この間の事情は記録にありませんが、胤長については未決のままでした。
和田一族からは罪人を一人も出したくないし、二人許されれば、同じ一族のもう一人も許されて
よいはずと義盛は考えていました。
翌九日には皆と相談した結果、三浦・和田一族九十人揃って御所へ参り、南庭に列座して胤長赦免を
歎願しました。一族憂悶のあまりの恭順の歎願のようですが、実は結束した威嚇的な強引な歎願でも
ありました。大江広元が実朝に取り次ぎましたがこの有様に実朝は「胤長だけはゆるすわけには参らぬ」
と言いました。陰で義時が、実朝に許さないように含めたことは様子で分かるので義盛は髭を震わせて
怒りました。そればかりか、金窪兵衛尉行親の手から山城判官行村に胤長を渡して禁遏を加えるように
義時が申し渡すと共にわざと縛られた胤長を一族の面前に引き出しました。屈辱のあまり義盛は
「うーむ、義時め」と睨み、一族こぞって荒々しく立ち去りました。
胤長が許されなかったのは、義盛の息子達と違って張本人の一味として重要な位置を占めていたのかも
知れないし、特別の恩典を示すために息子の二人だけは許したのかもしれませんが、賢慮の争剋と感情の
行き違いがあるとそれぞれに考え方や受け取り方が違ってきます。
剛直な義盛ではありますが、こうした場合には慇懃に義時に手を廻しておけば、また状況はかわっていた
かも知れませんが、しかし義盛は幕臣でも最高位に位置する侍所別当です。北条氏の専横には眉を
顰めても、頭を下げる気持ちは毛頭ありません。義時としてもなにかにつけて肩をならべようとする
和田一族をくじけさせようという気持ちがあります。
二人の息子を赦免して、張本人の一人の胤長を死罪にせずに配流に決しょうとはからっただけでも
和田は感謝しなければならないと思っています。和田まのすべての歎願を入れたら幕府の式目の権威が
保てないし、他への示しがつきません。どちらの方にも立場上の面目と理由があります。
こうしているうちに、胤長は十七日に陸奥国岩瀬郡に配流と決まりました。生命だけは助かったのですが
和田一族には憤懣やるせないものがありました。
十九日夕刻、若宮大路に面した和田義盛の屋敷の近辺に、甲冑武者が五十騎ほど動くのを認めました。
義盛の与党横山太郎右馬允時兼の一行らしいと、義時のもとに注進が入りました。
二十一日には胤長の長女で六歳になった娘が、父が流刑となったのを悲しんで病気にな済
になった娘が、父が流刑となったのを悲しんで病気になり、重態になり家人は心痛し
和田新兵衛尉朝盛が胤長に似ているので、父が宥されて帰って来た振りをして慰めたが、遂に息を
引き取ってしまったという。義盛はいよいよ義時を僧みました。
胤長の邸は荏柄大神社の前にあったが、流罪決定と共に没収された。ここは地の利が良いので
多くの後家人がその拝領を願い出ました。
それを知った義盛は、 二十互日に御所に飼侯して御所女房互条局を通じて、
「先先代将軍家の御時より、一族のうちで屋敷没収されし折りには、その一族の者に与えて
他の者には下賜せぬしきたとなっております。故に胤長の屋敷は義盛に賜りたく存ずる。
あの地は御所の東隣に位置し、宿直「とのい」や伺候致すのに近くて便が宜しゅうござる。
何卒老いぼれのそれがしに、是非賜りますようお取り次ぎ願います。」
と申し入れたところ義盛の憤懣を和らげる意味か直ちに許可されました。
義盛は喜んで、早速代官久野谷弥太郎を行かせて移転の準備をさせました。
ところが、それより七日ほど経った四月二日に、義時は荏柄天神社を参拝した帰りに、この旧胤長邸
を見て、今度の事件の手柄として金窪兵衛尉行親と忠家に分ち与えると令して、久野谷弥太郎を追い出して
しまった。金窪は和田一族です。
これを知った義盛は、身体を震わせて怒ったが、今の立場はすこぶる状況がまずい
この事件以来、勢威も『吾妻鏡』に記されるように、北条氏とくらべると「虎と猫」ほどの差である。
しかし、窮鼠反って猫を噛む、縮んだものは激しく伸ぴかえすもの。和田氏にとっては悪意に悪意
を重ねられれば、反発以外方法は無い。これ以上の届専を重ねて、 一族が萎縮してしまってからでは
和田氏に同調呼応してくれる後家人もなくなるであろうから、北条氏の圧迫を挑ねのけて武力行使する
には、今を置いては他にはないと覚悟しました。
密かに、呼応してくれそうな後家人・縁類に連絡を取る。北条氏に不満を持ったり、今回の和田氏
への仕打ちに同情している者も多い。御所の西に邸を持つ縁戚の三浦一族もそうであります。
三浦平六左衛門尉義村も弟の九郎左衛門尉胤義も、挙兵する時は共に起つと起請文まで書いて約東して
くれました。武蔵国横山党の右馬允時兼は挙兵の急先鋒であり、義盛の子の義直・義重は白分らのことから
こうした結果を生じたから、どうあっても北条は減さねばならぬと決心している。夜になると、諸方から
連絡の者が義盛の邸の門を潜り、着々と準備するので慌だしい気が立ちのぼる。
ところが、常盛の子で義盛の孫に当る和田新兵衛尉朝盛は、将軍実朝の側近として寵愛深かったために
祖父や父の反逆行為には反対であった。いろいろ悩んだ揚句に、夜陰に紛れて蓮浄坊の草庵に行き
にわかに剃髪遁世して郎党二人と小舎人と童を連れて京都へ旅立ってしまいました。
十六日の朝に置手紙を見た義盛は、身内から離脱者が出たことを怒って、
「たとい遁世したとて、我等が企てを逃れることはできない。早速追いかけて行って連れ戻せ。朝盛
は武術にすぐれている故、抵抗するといけぬから大勢の武者を連争て取り囲んでつれて参れ。」
と息子の四郎左衛門尉義直に命じた。武装した一団の武者が慌しく馳って行ったのであるから
北条義時も「和田の挙兵は近いぞ」と感づきます。
十八日には、朝盛は駿河国手越で義直に追いつかれて連れ戻されて来ました。こうした状況は憶測を呼び
鎌倉中にさまざまの流言飛語が乱れ飛び、一触即発の危機が追るが、義盛は末だ決起しません
武蔵の横山党や波多野三郎・三浦一族との最後の手順が決っていないからであり、北条方も先手を打って
攻め寄せる気配もありません。
将軍実朝が和田一族を討伐せよとの決定命令をしないからでもあり、鎌倉中を大騒動に巻き込む事は避けた
かったのでしょう。
さりとて比企能員のように呼び寄せての謀殺の手段はもう利きません。
呼び寄せる事こそ合戦のきっかけとなってしまうからです。緊張の日々が続きます。
十日ほど経った二十七日に、宮内兵衛尉公氏が将軍の使者として
和田邸を訪れました。なんとか調停の糸口を
掴みたかったからでしょう。
公氏が寝殿に通されて上使として座についていると、慌てて衣服を改めた義盛が対の屋から出てきました。
「世上では、和殿が密かに反逆を企てていると専らの噂。間き捨てにならぬことにて、和殿はどう御
考えになっておられるのぢゃ。将軍家におかれては、御心痛一方ではござらぬ。和殿に反逆の気持ち
まったくござらぬとあれば噂になるような行動は止められて、唄日より出仕なさるが宜しかろう」
と公氏がいうのに対して、義盛は祖父以来の忠勤を述べ立て、
「何で将軍に対し奉り反逆の意志あろうや。北条氏が我が一族を亡きものにする企みあるにより自衛
するまでのこと。北条氏が吾等を尊重されれば以前と変り無く出仕も仕るし、将軍を補佐致すであろう。」
と長々と弁じたが、列座の朝夷奈三郎義秀や古郡左衛門尉保忠の険しい顔付や別室に夥しく
集められた武器・武具類を垣間見て、なかなか和解は困難と察して去り、御所に参候してその様子を報告しました
将軍実朝は風雅の道に親しんで、北条民の言いなりになって諦観逃避している人物ですが、寵愛する
新兵衛尉朝盛の一族であり、鎌倉幕府創立以来の功臣でもある和田一族を滅したくはありません。
和田一族の存在は、北条氏牽制にも必要である。この際どうあっても和田一族を宥めて、不穏の空気を
取り除き安泰の世にせねばならぬ。心痛のあまり、夜になって刑部承忠季を再ぴ上便として和田邸へ派遣
しました。義盛は「これは将軍家を恨み奉ってのことでなく、執権義時の非道に対して怒っておるので
え御教書賜わりたるとも、北条氏を討つ気持に変りござらぬ。こちらで防戦の用意なくば、あの比企
一族のごとく討ち滅ぼされることは必定。われら滅ぼされなば将軍家の御安泰も計り知れず私憤
ばかりではなく君側の奸を討つことなれば、もはや止め立てなされようとも、止めようがござらぬ。
老い先短かいそれがしが今北条を討たざれば、われらの息子共の時代には滅ぷこと目に見ゆるごとく
でござる。将軍家に果を及ぼすことは致さぬにより、必ず決行致す。度々の忝なき御諚を戴き
義盛嬉しく存ずる次第、義盛の真意くれぐれも御前態宜しく頼み入る。」
と言い切ってしまったので、忠季も翻意なしと見て、「さらば戦場にて相見得ん」と戻って行きました。
報告を受けた実朝は最悪の事態が迫ったことに夏慮し、翌二十八日に義時と大江広元が登営したので
いろいろと相談し、事件が平穏に納るように鶴岡八幡宮で祈祷を行わしめ、さらに勝長寿院で怨敵退散
の大威徳法を修せしめた。
執権義時の邸は現在の小町三丁目宝戒寺のあたり、和田義盛の若宮大路の邸とは歩いても五分らいの
ところですから、互いに兵を繰り出せば、物音で直ちにわかりますから、
お互いに諜者を出して探り合いました、しかし動きが見られなかったのは双方共に軍触の兵が思うように
集まらなかったためで苛立たしい二・三日を遷延してしまいました。
五月二日、この日は曇天でした。和田義盛の館に武者の出入がにわかに活発となり、馬の嘶きや物音
がして糧米が運び込まれたり、炊事の煙が絶え間なく上がってただならぬ様子です。筑後左衛門尉朝重
は隣屋敷です。直ちにこの気配が御所に近い問注所別当大江大膳大夫広元のもとに報告される。広元は
折しも客を招いての酒宴の最中であったといいますから、昼間から酒を飲んでいたということになります。
報告を受けた広元は武人出ないから少し蒼ざめましたが、客達にわからないように座をはずして
その足で御所に伺候して義盛が決起しそうな様子を言上しました。
三浦義村の裏切り
三浦六左衛門尉義村は起請文まで書いて挙兵に同調する約束でありましたから
和田方から今日決起するからご用意ありたいとの使いが来ました。
しかし、この二・三日北条氏の動静を窺ってみると、どうも静かで不気味です。
なにか成算があってのことではないかと思い始めました。この際下手な動きをしたら
比企・畠山の二の舞となりかねません、相手は何と言っても将軍家を擁しており、
義盛達の行動が日立つようになっても乗って来ないところは不気味です。
色々考えると、北条氏の実力がとてっもなく大きく映り始めました。
こうなると三浦義村も自家存続の方が大事です。今度の事件で和田一族の権威は落ちているから
呼応する者も意外と少ないかも知れぬ。挙兵に応ぜず中立を守ろうかと思ったが、 一度和田方に同心した
以上、戦わなくても罰せられるのは当然である。昔の武士は一所懸命の本能を身に浸ましています。
少々裏切っても、生き残って家を存続せねばならぬのだ。三浦一族が助かるばかりか浮かびあがれる機会は
「義村の本音は惣領家の義村達よりも権勢を誇る和田一族を追い落として、それに取って代わろうとする
絶好の機会が来たと考えましたが、結果として、ここで三浦惣領、和田の連合軍ならまず間違いなく
北条氏に勝つことができたでしょうが、一族を割る事により弱体化した三浦一族はその後の三浦合戦で
北条氏の策謀により、比企・畠山・和田と同じ道を歩み滅ぼされることになります。」
この際寝返って北条氏に忠勤を励んだように見せかけることだと、弟の九郎右衛門尉胤義と話しが
つきました。訴込ことによって、加担の罪を逃れようとして義時邸へ行きました。義村の邸は八幡宮の東側です
から、義時の所へは三分とかかりません。大体陰謀というものは、身内や縁類の裏切りから漏れるものです。
義時はこの時、邸で大勢の御家人を招いて囲暮会を開いていました。切迫した空気の日々の中で悠々と
囲暮会を開いている点などが、三浦義村をして恐れさせた理由でもあるでしょう。表面、兵を集めた気配を
見せませんが、成算あっての余悠であるから、三浦義村の訴込を聞いても別に驚いた様子もなく、静かに微笑
すると、「相わかった。御苦労に存ずる。あとは将軍家の御為に働くように」と、まるで主人が家来に言うように
立ち上がり、これも囲碁会の客にわからぬように室をでました。平服の直垂折烏帽子から水干立烏帽子に
改めると、御所に登営して将軍に面謁して、和田一族が本日いよいよ反逆挙兵する事を言上して、
「万一、和田が御所へ押し寄せましたら、お目障りと存ずるゆえ尼御台様と御台様は
は鶴岡八幡宮の別当坊へ御移りあるように。」と北御門から側近を付けて避難させました。
それから使を邸に派して、集っていた御家人に急ぎ各白の邸に戻って出陣の用意をするように命じ
相模・武蔵の御家人に軍触の便者を発進させた。その手順まことに迅速でありました。
一方和田方では、武蔵党の横山右馬允時兼が三干余騎を引連れて駆け付ける手筈
になっていましたが、予定の時刻になっても一向に現れません。こちらの厥起は何となく
悟られたらしく、街の動きが慌だしい。君宮大路や小町大路を軍馬が続々と駆け抜けていくし
大町小町の町屋も避難の庶民でざわついているようである。いたずらに時を遷延すると北条方から攻めて
来て包囲されるおそれがある。四郎左衛門尉義直も五郎兵衛尉義重もじりじりして立った
り、兜をかむったり脱いだりして落ちつかない。
「落ちつけ。」
と三郎義秀に叱られる。義盛は胡座のまま腕を組んで、苦渋に満ちた顔で目を閉じています。
の気配におぴえているのか勇んでいるのか、鞍置いた軍馬命ドたり、前脚で土を掻いたり多くの軍
兵も鳴りを鎮めてはいるが落ちつかない目をし、外の気配に耳をそば立てる。このままでは包囲されて
自滅してしまう。もう待っていられない、と申の刻(午後四時頃)ついに門を開いて打ってでました。
先頭は白髭に兜の緒を食い入るほど紺めた和田左衛門尉義盛、続いて嫡男新左衛門尉常盛と一度は
遁世して連れ戻されたその子の新兵衛尉朝盛入道、三男朝夷奈三郎義秀、四男四郎左衛門尉義直
五男五郎兵衛尉義重、六男六郎兵衛義信、七男七郎秀盛をはじめとして親戚朋友判類百五十余騎
小町大路へ押し出すと北上して三手に分れる。
一手は執権義時邸、 一手は暮府の南御門から西・北の御門、 一手は御所の前を通って大江広元の邸へ
と進撃する。道順からいうと小町人路を北上して義時の邸と、筋替橋の所を石析して御所と金沢道方面
から広元邸へと分れたのでしょう。各邸でも和田勢の通過する馬蹄の轟きとどよめきを聞いて、門を閉ざ
したり防戦の用意をしたであろうし、御所でも近づく喚声に武者達が防備の持ち場に去ったと思われます。
執権邸はわずかの留守居人であるから苦もなく侵入したが、義時がいないと知ると御所攻めの兵と合流します。
御所の東方にある問注所別当大江広元邸では、わずかの人数であるため和田勢が襲撃すると皆裏門から
逃げてしまいました。もちろん広元はいません。
「それ御所に行け。」
と和田勢は足音を乱して戻ってきます。
将軍御所は金沢道に並行した道があって、そこに南御所があり幕府政庁の入り口です。
その西側八幡宮よりと荏柄天神社寄りの東側に北に向かって横大路があり、後も法華堂を距てて道があります。
東御門・西御門・北御門があって、推定では東西約二七○メートル、奥行は二一○メートルほどの広大な地域
で、現在の雪ノ下三丁目の清泉小学校敷地とその西側の一部が含まれたあたりであるから、和田勢の
百五十騎あまりでは、とても包囲できません。御所の四囲の道路を慌しく馬蹄轟かせて駆けめぐり鬨の声
を上げたりして威嚇したが、やがて槌矢をもって南御門の一屏を打ち破り、騎馬武者がどっと乱入します。
その頃になって波多野中務丞忠綱と、 一番御所に近い三浦左衛門尉義村兄弟が、西御門方面より駆け
つけて幕府側に加わった。三浦勢が和田方に矢を射かけながら突撃して来るので、義盛ははっきりと
義村の裏切りを知り、「おのれ三浦メ。」
と怒って駆け合せたので、三浦勢は西御門より御所内に退却する。
御所内では執権義時・修理亮泰時・次郎朝時らが、馳せ棄っていた御家人を手分けして持ち場を固めさせ
垣の外れや、築地塀の上に掻楯列べさせ、射手を登らせて和田方を射る。
酉の刻(午後六時頃)、日はようよう西の源氏山の陰に入ったが未だ明るい。合戦二時間に及びますが
、
幕府方は建物の中、築山・木立の陰から矢を射かけなかなか奥に侵入できないので苛立った義盛が
「火を懸けい。」
と叫ぷ。点火した松明が次々と建物に投げ込まれた。火は五月の夕風にたちまち燃え拡がる。やがて橙
紅色の光りに染まった御所は轟々と音を立て、暗くなりかけた空に金粉を撒き散らし、その下で武者が
駆け回って怒号し刃をきらめかせて死闘する。赤く照し出された地上で組み打ちしてごろごろ転がる者
阿修羅のように斬り回る者、狂ったように失次早に失を射る者、『君妻鏡』はこのあり様を「鳴鏑相和し
利剣刃を躍らす」と形容しています。
火は政庁から御所の建物にも燃え移ったので、将軍実朝は義時・広元らと共に北御所より後の法華堂
に動座しました。
南御門から失入し、南庭で目覚ましい働きをしていたのが、豪勇を持って鳴る朝夷名三郎義秀である。
『吾妻鏡』に、「義秀猛威を振い壮力を彰かにし既に以て神の如し、彼に敵するの軍士死を免れざるなし。」
とあり、雷神の荒れ狂うごとくで、義秀の手にかかった者は、名ある者だけでも五十嵐小豊次
葛貫三郎盛重・新野左近将監景直・礼羽蓮乗らです。
ところが義盛の弟二郎義茂の子高井三郎兵衛尉重茂(実は義茂の弟宗実の子で実名は実茂)は一族で
ありながら義盛に一味せず、御所側に馳せ参じていたのにばったり出逢いました。
「うぬッ。おのれは重茂よなッ。」
「おう。たとえ一族たりとも将軍に刃向かうは逆賊なり。誅してくれん。寄れや義秀。」
「望むところ。従兄弟とて容赦はせぬぞ。」
と互いに馬を寄せてがっしと組んで揉み合って、二人とも馬の間に落ちましたが、義秀たちまち上になって
重茂の首を掻く。
これを見ていた、北条相模守次郎朝時、太刀を翳して駆け寄るを、義秀は片膝ついた
「うぬもかッ。」
と叫んで片手打ちに払い斬りにしたので、朝時は大腿部に傷を愛け退却する。これが義時の次男と知って
いれば追いかけて行って首を取るところであったが、火影を背にして顔も見なえかったので気が付きません
立ち上って自分の馬に乗ったところに足利三郎義氏が馳せよって来ました。
「おう。それに見ゆるは足利殿と御見受け中す。いざ組打ちせん。」
と大手を拡げて、南庭の大池にかかる橋の袖まで進む。義秀は有名な組打上手の強力。これと組んだら
まずいと、足利義氏は馬首を返して逃げようとするのを、義秀は素早く義氏の鐙の柚を掴みました。義氏は
引き倒されまいと、馬上に身を沈めて鐙で両角を入れる。馬は挑躍して走り出したが義氏は落ちず、
義秀の手もとには鐙の抽が干切れて残った。本来鐙の袖はいくら引っぱっても干切れるものではないから
袖を掴んで引いたら馬上から引き落とされるのが常であります。柚が干切れてその反動で二人共馬から
落ちなかったのは、共に強刀で馬術達者だからです。
火災が急を告げる警告になったから、鎌倉中の御家人達は続々と駆けつけ、幕府方は路という路を埋め
尽し、和田方は壊滅寸前である。合戦すでに三時間にわたるが、横山党を始めとして一味同心した者
が末だに駆けつけてくれない。やむをえず御所から退却することにしたが、若宮大路も小町大路も幕府
方で一杯です。
「血路を開けッ。わしに続けッ。」
義秀が先頭に立って一団となり突出して浜面に向かいますが、待ち構えた敵は物陰から雨のように矢を浴
ぴせるので、和田方は地響さを打って斃れる。幸い暗くなって、敵・味方の区別が付かなくなってきたので
下馬の辻・米町日あたりまで退くことができましたが、皆、疲労困憊して馬の足すら乱れ勝ちです。
邸に戻って最後の防戦のつもりでありましたが、邸はすでに幕府側の占拠するところとなり近付こともできません
振り返ると御所の火の手もようやく収ったらしく、北方がほのかに赤く、見上げる空にはきらめく星が
うるんでいます。残兵をまとめると討死のほかに離脱した者もあると見えて、わずか五十騎あまり、
ほとんど千傷を受けており、元気なのは義秀一人である。そこへ喚声を上げて突撃して来たのは、先刻の
足利三郎義氏・波多野中務次郎経朝・筑後六郎尚知・潮田三郎実秀らです。
義秀たちは憤怒の形相物凄く、返し合わせて字都宮の辻あたりまで追い散らすが、深追いすれば包囲
されるので浜面の方へ退却します。
夜戦は敵・味方の判別がつきにくくて間違いが起こり易いので、幕府方もようよう追撃することを断
念したらしい 和田方は暗い中を互に相手の名を確かめ合って、由比ケ浜の方に退いていきます。
昼間であったら激戦の挙げ句の
無惨な姿を眺め合って気を落としたでしょうが、闇がそれを隠してくれて皆黙々と歩きます。
由比ヶ浜に集結して、体息をとりました。北を眺めると徹帰のためほの赤く、人馬のざわめきが微かに
伝わってくるのは、近国の御家人が末だ続々と馳せ参じる証拠である。万事ことは終った。かくなる上は
明朝暁闇を利用して、再度斬り込みをかけて一族ことごとく全滅して、怨霊となるばかりである。暗い中で互いに
に顔を想像して確かめ合い、それぞれの物思いに沈む。聞こえるのは間を置いて響く潮騒と仄かに白く
動く波頭のみである。
思えばえばこの浜は、治承四年の秋八月、畠由重忠と戦った所。その重忠も九年前に北条氏に謀られて
滅んだし、重忠の息子の重保が討たれたのもこのあたりである。
星が見えなくなったと気がついた時には、ぽつりぼつりと雨が降り出した。浜の松のひとむらに場所を移して
固っていると、梢から滴が落ちるまでもなく義盛の頼は濡れる。焦らだたしく時を過ごすが夏の夜は短い。
あたりが薄明るくなった寅の刻(午前四時頃)、遠く稲村ケ崎の方から微かに馬の
噺きとざわめきが間こえた。鎌倉に変ありと駆けつける武士団であろうと、早くも義盛の周囲の
武者が立ち上り、こちらに気が付いたら迎撃しようと馬に飛ぴ乗る者、松並木に身をひそめ
太刀を構える者、息のつまる緊張感がみなぎる。義盛は少年の頃より看馴れた鐙をひどく重く感じながら
立ち上がると皆の前にでました。小雨に煙る中を蓑笠つけた騎馬武者集団が、稲村ヶ崎の崖下桟道に陸続
として現れ、一・二列で現れるから夥しい数に見えます。これから御所に斬り込みに行くまでもなく、
ここが死場所となった。名乗りをかけてからこちらから突撃に出ようと、
「そこに参られるは誰方にて侯や。」と義秀が叫ぷと、相手の集団の中から。
「そちらこそ誰人にて候や。吾こそ横山武蔵党の旗頭、横山右馬允太郎時兼なり。そちらも名乗らせ給え。」
という声が返って来た。
「おう。横山殿か。待ち兼たり。われこそ和田義盛とその一族なり。」
思わず顔を綻ばせた義盛が進み出る。 一同歓声を上げて走り迎える。
武蔵党洩れなく呼ぴかけて、大勢を集めるのに手間取って約束の刻に遅れて今参着したのである。
時兼が引き連れた勢は三干余騎。手順が狂って昨日は敗退したとはいえ、これだけの人数がいれば今度は
勝利を得ること必定である。和田方は急に元気付く。横山党は義盛達から様子を聞いて、今日は吾等
が充分に働いて御目に掛けると、着ていた蓑笠を投げ捨てると、たちまちいくつもの山ができた。
「それ押し出せ。」
とまず鬨を上げる。今度は鎌倉の街々を固めていた幕府側の武者が驚きました。
鬨の様子から窺うと大部隊のようです。暁方を期して、近辺に残存する和田一族を一挙に包囲して
殲滅しようと思っていたところ、にわかに大軍となっているので、慌てて法華堂にいる将軍のところに
注進が飛び、それより義時・広元その他の重臣が鳩首協議の決かとりあえずこちらこら攻勢に出ようと
若宮大路、小町大路、武蔵大路を溢れるように浜面に向って進んで行く。
辰の刻(午前八時頃)、幕府方が海を見通せるあたりまで進出して思わず足が止った。
意外にも甘縄から由比ケ浜、遠くは稲村ケ崎へかけて見渡す限りの軍兵で、各家の旗が低く垂れ込め
た空の下に漣のようにひらめいている。伊豆から相模へかけての豪族の曽我・中村・二宮・河村の軍
勢が、後から後からと馳せ集っていたのである。これではとてもかなわない。津波が押し寄せるように
北上されたら、いくら将軍に忠誠を誓う勇士でも、団結力の強い北条氏でもひとたまりもありません。
迂潤に戦を仕掛けられないから、停止して各陣から慌てて注進が将軍の所に飛びます。さすがの執権義時
も、智恵者の広元も意外さに沈黙してしまいました。形勢逆転すると寝返りしかねない御家人もいます。特に
和田一族でありながら裏切った三浦一族は危険です。そうなれば将軍は殺されることはありませんが
北条氏は滅亡させられます。形勢逆転して最大の危機が迫っりました。しかし、さすがに巧者の大江広元
「方々、御案じ召さるな。いやしくも恩顧を受けし御家人達が、将軍家に対してそむき奉る気持ちは毛
頭無いはず。将軍より御教書を彼の者達に遣わされれば、事の順逆の次第が判明致し、和田方より
離れてこちらに馳せ参ずると存ずる。何卒上様には御教書を御遣わしなされませ。」
といった。 一同なるほどと賛成し、昨日奮戦した上に疵を受けた波多野弥次郎朝定が起草したのを
執筆が浄書して実朝が花押を書いた。
それに執権義時と別当広元の文をつけた。その書状を、安芸国(広島県)住人山本宗高が持参して
浜辺の軍勢のもとに行った。これによって浜辺を埋め尽した軍勢の大部分が、竿頭に旗を捲いて陸続と
将軍方の陣に移り、残ったのは和田一族と横山党の者ばかりとなった。暮府方は山を背にして邸街一面
に旗が翻り、路次に軍兵が溢れ人馬輻輳して喧騒を極める様子が遠くからでも見える。
これに反して和田方は、横山党が駆けつけた時は大部隊に感じたが、その後に参着して浜辺を埋め尽く
した大軍が去ってしまうと、三千余騎でも急に孤立した小部隊に見えて来る。義盛以下切歯扼腕し、髭
を振わして怒ったがどうすることもできない。何故構山党参着の時に、すぐさま攻撃に出なかったのでしょうか」
そうすれば後から参着した勢も後詰めとして一瀉千里の勢いで北条方に攻撃をかけて目的を達せたはずです。
義盛の所に続々と参着した軍勢の応待に時間を空費してしまったのでありましょう。
こうなるとと、再び討死覚悟の悲壮の気待に戻ります。
「おのれッ。今日は和田一族の最後ぞ。一人でも多く冥土の道連れにするまでじゃ。」
己の刻(午前十時頃)、ようよう和田勢を先頭に、構山党が轡そろえて北上します。
「まっしぐらに敵中を突破して御所を襲えッ。」
「義時の首を上げるまでは一歩も退くなッ。」
真直な君宮大路。昨夜来の雨による泥濘を挑ね上げ、地底を揺がすごとく馬蹄を轟ろかして進みます。
接近するにつれて、楯を列べて待機していた幕府勢からは矢が乱れ飛び、和田勢は倒れても倒れても
その上を飛び越えて進みます。
ここを守っているのは北条修理亮泰時と武蔵守長時の軍勢。
小町大路は足利上総介三郎義氏。名越は近江守頼茂。大倉には佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光
らに近国より馳せ集まった御家人達が丸太を組んで
抵楯並べ、露路露路に満ちて和田勢を一歩も入れまいと矢を番えて待機しています。
若宮大路の戦がもっとも激しく、和田勢もここで突入を阻まれて、やむを得ず
楯を列べて矢戦に移る。この時、幕府方の由利中八郎維久は剛弓の名人でありますから
木陰を楯にして、和田方の古郡左衛門尉保忠の郎党を次々と射倒しました。
古郡保忠は大いに怒って馬から飛び降り、その矢を抜き取って見ますと大鏃で長いのに由利中八郎維久
と刻んであります。「おのれっ」
とその矢を番えて答の矢を射返そうとすると、修理吉冗泰時が馬上で指揮している姿が目に映りました。
引き絞った矢をそのまま泰時に移して、ひょうと羽音鋭く射放すと、矢は泰時の鎧の草摺を射て危うく
太ももを貫くところでした。
鎮西(九州福岡県周辺)の住人小物又太郎資政は、
「和田義盛殿に見参。」
と楯の間から突撃しましたが、これは朝夷名三郎義秀に呆気なくなく首を取られました。
ここでもめざましい働きをしたのは朝夷名三郎義秀で、義清・保忠と共に三騎轡を敵陣に突入して
楯を蹴散らして斬りまくり幕府方は度々退却しました。この手の大将修理亮泰時も黒雲巻いて躍りかかるような
猛攻に辟易して伝令を法華堂の将軍の所に派せて、援軍を請いました。
武家の棟梁でありながら武事は好まぬし、昨日来和田の攻撃に気を腐らせていました実朝は
応援の武者を遣わせと命じるとともに、大江広元に「敵壊滅の祈願」を鶴岡八幡宮に捧げるよう願書を書かせ
その奥書に和歌二首を添えました。さすがに歌人将軍です。
祈願書は宮内兵衛尉公氏が使となって八幡宮へ参りましたが、その直後のことです。
若宮大路から侵入し難しと見た土屋大学助義清は、手勢を連れて武蔵大路方面から亀ヶ谷に進み
窟堂の前の路を右折して側面から侵入しようとしました。
八幡宮の西側からの道ですが、この時、幕府方はこの方面は意外と手薄だったと見えて義清一行
は山崩れを打って侵入し、御旅行(御輿が渡って来て休憩する所)ヘ出るため赤橋の所まで来たとき
どこからか鏑失一筋飛来して義清の眉間に当りました。鏑は砕け散って鏃は深々と刺さります。急所の痛手で
たづな
義清は手綱を控えて馬上にしばし揺らいでいましたが、ついに落馬して息絶えました。あまりの呆気ない討ち死に
に郎党が慌てて馳せ寄りましたが、敵が遠くから駆けて来るのを見ると、首を奪われまいとして義清の首を掻
き切って亀ケ谷に走り去ったので、続く郎従も四散します。義清の首は寿福寺に葬ったといわれています。
『吾妻鏡』は、「敵覆滅祈願による八幡宮の霊験」とし、「神鏑」と書いてます。
幕府方は新手を入れ替え入れ替えして攻めるのに反して、和田勢は昨日以来の疲労の武者です。
いくら死を決したとはいえ、矢を射尽くして、郎党に拾い矢をさせて射返すだけでそのうち矢を拾う者も
射倒されて、残る武器は疲れた馬と太刀、薙刀だけ。
ほとんどが矢傷を負い、あちこちに孤立して動きが鈍くなり、薙刀の柄や太刀を杖にして、次第にまた浜面に
押し戻されてきます。酉の刻(午後六時頃)曇天ながら西の空が不気味に紅みがさして、山陰にもやのように
薄闇が漂い始めた頃、義盛が子息の中でもっとも愛していた四郎左衛門尉義直が、伊具馬太郎盛重に
討ち取られたという報が入りました。義直、時に三十七歳。クーデターに一味した咎で捕らわれ、義盛
必死の歎願で助かった息子です。
昨夜から一食も摂っていないし、今日一日中の激戦です。義盛は精神的にも肉体的にも、藻抜けの殻
のようになりました。義直討ち死にの報に虚脱したごとき目から涙が光って、皺の頬を伝わりました。
「わしも逝くぞ。義直。」
とつぶやくと、くるりと振り向いて敵の方にふらふらと歩んでいきました。
矢が幾筋も飛来して、かすめたり鎧に刺さったりしました。それでも太刀を杖にして歩きながら
「反逆の張本人、和田左衛門尉義盛ここにあり。討ち取って功名にせよや。」
としわがれ声で叫びました。
「和田殿。御首頂戴仕る。」
と馬を馳せらせたのは、江戸左衛門尉能範、御物射のように駆け回ってはたと射て、義盛が膝を突くところを
飛ぴ下りて首を掻く。哀れ義盛六十七歳で浜面の露と消えました。
子息達も諸所で孤立して、乱刃のもとに倒れる。五郎兵衛尉義重三十四歳、六郎兵衛尉義信二十八歳
七郎秀盛年齢わずかに十五歳。
こうした惨敗でわありますが、朝夷名三郎義秀はあくまで不屈の豪傑で、敗走する味方の殿りとなって
由比ヶ浜に出、あらかじめ朝に用意させてあった六般の船に残兵を収容し、敵の失の乱れ飛ぶ中を悠々と
よう
漕ぎ出して行ったが、その後の行方はようとしてわからない。『和田系図』に拠ると、義秀は「乗舟渡
越高麗国云々」とあり、現在の北鮮の地に渡ったように作られていますが、安房に脱れたとの説もあり
また、金沢道の朝比奈切通しは、義秀が一日で開いたとも伝承されているように、伝説敵人物です・・・
「とは表向きで我が一族のご先祖なのでどこに逃れたかは我が一族には伝わっていますから知っていますけど
( ;^^)ヘ..」
義盛の長男新左衛門尉常盛、新兵衛尉朝盛、岡崎余一左衛門尉実忠、構山右馬允時兼、古郡左衛門尉
保忠、山内先次郎左衛門尉政宣の六人は、散々暴れ廻ったのち戦場離脱して行方をくらましました。
日はようやく沈み、鎌倉の空を童苦しく蒸し暑い暗黒が覆うと、辻々、邸の門前に篝が焚かれ、その
火明りの中に戦場掃除の雑兵の影が慌ただしく動く。ようやく怒号、矢哈り、剣戟の響き、馬蹄の音止
んで、陽気の人声も戻って来ましたが、避難した街の民家は閣の中にひっそりとしています。和田方戦死
の死体が、続々と由比ヶ浜の砂地に列べられます。
一応、和田勢は滅亡したと見て、義時は金窪左衛門尉行親と忠家を首実検所役として由比ヶ浜に赴かせました。
まず、江戸左衛門尉能範によって、義盛の首が差し出されます。鬢髪すでに白く乱れて血で頬にへばりついた
首は、無念の形相で半眼見開き、小雨に濡れたさまは涙しているようです。次々と差し出される
中に、女子かと見紛う色白の首は七男秀盛、漆黒の髪乱れかかり、紅唇さめたとはいえぞっとするぐらいの
美しさです
累々と列べれた姓氏不明の屍体は、腕の無い者、識別不能なくらい顔を斬られた者、松明の明かり
で不気味の色に変じて鬼気迫るものがあり、潮騒の音すら地底から苦悶する死者の呻きのようです。
翌日も雨です。義時の命で、和田方の首二百三十四が固瀬川の辺に晒されました。とてもさらし首台には
列べきれないので、義盛以下主だった者だけを台に懸け、あとは稲束を懸けるように丸太を組んで
首を紐で吊し、それぞれの名札がつけられていました。
夕刻に、甲州に逃れた長男の和田新左衛門尉常盛と横山右馬允時兼が討たれて、その首が鎌倉に着きました
これも実検の後に固瀬川に晒されました。
この日の午前中には、将軍実朝が法華堂から焼け残った尼御台政子の東御所に移り、それから西御門
に幕を張って、今回の戦で奮闘して傷ついた者の実検が行われ、山城判官行村が奉行に命じられました。
「吾妻鏡」によりますと九百八十八人の討ち死にが出たと記してあります。
そして負傷したものは少なくても五百人以上でとしょうから、和田勢がいかに勇猛であったかがわかります。
次々と負傷者が現れて、政子や実朝、義時にいたわりの賞詞を受けましたが、むこのなかでも
特に人目を引いたのは、勇敢にも朝夷奈三郎義秀に立ち向かって、大腿部を斬られた北条相模守次郎朝時
で、歩くのが不自由な為に兄の修理亮泰時に助けられて伺候 して一座の感動を買いました。
続いて論功の申請に移にうつりましたが、波田野中務丞忠綱と三浦左衛門尉義村が先陣を言い立てて
口論となり、激したあまり将軍の御前も忘れて「めくらか、汝は」と言ったことが災いして
後の七日の行賞から洩れるというハプニングがありました。
また奮闘した由利中八郎も泰時に矢を射たと誤解され、義盛に同意していたのであろうと疑われました
和田方の古郡左衛門尉保忠が射返した矢であるといくら弁解しても
由利中八郎と書いた矢が
証拠であると泰時が強調したので、これも所領を没収されています。矢に自分の姓名を刻むのは
功名が紛れぬ証拠のために行うのですが、敵に矢を拾われて射返されると、こうした間違いが起きて
馬鹿を見ることになります。泰時も八郎の弁解ぐらい理解しているはずですが、意識的に罪状を作ったようです。
九日には、陸奥国岩瀬郡鏡沼南辺に流刑になっていた相田平太胤長が殺されました。
この合戦の素はといえば胤長に関係したことですから、和田一族が滅亡した以上、配流だけ
では済まされなくなったのです。胤長、時に三十一歳。かつて建仁三年 (1203年)六月一日
二代将軍頼家が伊豆の山で狩を催した時に、大洞窟を見つけて単身これを探険しましたが、帰ってきての
報告に、数十里の深さの奥で大蛇を斬殺して来たと話を作る男でありました(『吾妻鏡』)が弓馬の道には
すぐれており三代将軍実朝にも寵愛されていました。それが実朝を廃する陰謀の張本人であったばかりで
なく、和田一族滅亡につながる原因を作ったのですから、非業の最後は当然であるといえましょう。
胤長の死には後日譚があります。
奥州岩瀬郡鏡沼は、松尾芭蕉の通った「奥の細道」の鏡石町大字鏡田で、当時は大沼であったらしいです
が、現在は形ばかりの小沼となっています。ここの伝承では、胤長の妻が亡き夫を慕ってこの土地に来て
悲歎のあまりかげ沼に鏡を沈めて投身した所といわれ、芭蕉は、「かげ沼といふ所に行に今日は空曇り
て物影うつらず」と記しています。
また義盛の子和田次郎義氏も、その後討たれました。
「この和田と北条の戦いについてどんな感想をお持ちでしょうか、掲示板なりメールなりで
お聞かせいただければ幸いです。」
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