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三浦一族合戦史
由比ヶ浜・和田・畠山合戦
小太郎義盛
「治承四年八月二十五日」
頼朝が石橋山の合戦に敗れた前後です。
三浦大介義明は頼朝の挙兵の戦触を受けて大いに喜び、早速息子や孫を
参着させることとしました、合戦予定は八月二十三日
そこで次男の三浦別当荒次郎義澄・同十郎義連・大多和三郎義久・息子の義成
そして孫の和田小太郎義盛・小次郎義茂・小三郎義実
多々良三郎重春・四郎明宗・筑井次郎義行以下三百騎
二十二日に船団で出陣としましたが海が荒れたので翌日に延べました
しかしいくら待てども風波はおさまりません、やむを得ず二十四日の早朝に陸路
をとり普通二日の行程を一日で酒匂までたどり着きましたが丸子川の氾濫のため
渡河点が見つかりません、やむを得ず八木下「現在の小田原市酒匂の鴨宮付近」
に布陣して見ずの引くのを待つことにしました。そこへ三浦党の大沼三郎が石橋山から
逃れてきました、そして「戦は打ち合わせのごとく二十三日の酉の刻より始まり候らえど
敵は三千、味方は三百 手痛く戦えども次第に敗れ、三浦与一殿はじめ多く討ち死に致し
佐殿の御行方も分からず、噂にては御討ち死にとの由、それがしこれらの事を
東国の方々に告げ知らせんがために敵の目をかすめてここまで参った次第」と語りました。
そうなると天候の為とはいえ、日延べして戦に間に合わず頼朝討ち死にとあつては
面目が立ちません、しかしこれから進んで勝ち誇る敵と戦うのも無益な事です。
「敵は武勇をもつて聞こえる伊東・梶原・大場・俣野の三千騎、こちらはわずか三百騎では
蟷螂の龍車に向かうようなものである、しかも情報によると金江河「花水川」に大場の軍触に
応じた秩父の畠山次郎重忠が武蔵の郎党五百騎
引き連れて布陣しているとのこと、腹背に敵、これではここにまごまごしていると
全滅しかねない、かくなる上は一刻も早く三浦へ戻って善後策を講じなければならぬ。
畠山とは合戦致したくはない。小磯あたりは夜闇に紛れて渚あたりを通れば
波の音に消されてうまく通り抜けられると存ずる・・・という義盛の提案に衆議一決し、
皆轡には布を巻き鎧の草摺を畳み上げて音を立てぬようにして大磯・小磯の浜辺を密かに通過したので
畠山の陣は動きませんでした。ところが小太郎義盛は自ら忍んで通る事を提案したものの
畠山の陣の人目を避けて通る事を若い血が許さなかったとみえて、兜の緒をきりりと締めて
弓に矢をつがえて左手に持ったまま唯一騎、蒸し暑い夜気に蹄の音を響かせつつ
篝火を前にした畠山の陣前に行き、「この陣は畠山殿の御陣とお見受け致す。かく申すは
三浦党の大将三浦大介が孫、杉本太郎義宗が嫡子 和田の小太郎義盛なり。佐殿の御味方として
石橋山へ参ったるところ、戦はすでに終われりと知り、酒匂の陣より戻るところにてござる。
畠山殿が平家に味方されて吾等の通過を支えんとなれば一戦仕る。いつでもお相手致すによつて
懸かって参られよ。さもなくばさなくば吾等通過仕る。」
と大声で怒鳴り、様子を窺ってから駆け抜けて、暗闇に蹄の音を残して消えていきました。
小磯の浜辺をせっかく無事に通過したのですから、なにも畠山方を刺激しなくてもいいようなものを、
若気の至りからでしょうかつい言ってしまったのでしょう
さて、畠山の陣では小太郎義盛が不意に現れた時には唖然としていましたが
蹄の音がやみに遠ざかると俄に騒ぎだしました。
畠山の重臣 本田次郎近恒と半沢成清が慌てて重忠の前に来て、
「当家と三浦党とはなんら意趣はござらねど、大殿や別当殿が京の六波羅におわす今
あのように戦を仕掛けんばかりに言葉掛けられて矢の一筋も射懸けなかったとあれば
後で平家への聞こえも憚りあり。その上にあの和田の小倅の広言聞き捨てに成り申さぬ
と存ずる。武門の意地により追い撃ちしてしかるべしと存ずる。」
と目を怒らせていう。このとき本田も半沢も若いですが後に智仁勇兼備の名大将と謳われた
重忠とて血気にはやる少年です。「直ちに追い撃ちせよ」と命令を下しました。
急ぎ陣を引き払い手早く再武装をした畠山の一団が闇の中を東に駆けていきます
稲村ヶ崎の桟道を2・3騎ずつ走り抜け稲瀬川を飛沫を上げて渡ります
その前方を三浦党が小坪近くを峠口にかかるところです。
重忠は家来に稲瀬川のほとりに布陣するように命じ、数騎を連れて後を追いかけます。
騎馬の集団が山道を行くのは時間がかかりますから、数騎の重忠はすぐに
追いつきました。そして「やあやあ、畠山庄司次郎重忠おのおの方を追ってここまで
参ったるぞ。和田小太郎殿はおらるるか。昨夜の広言何とした。敵に後ろをみせたまま
逃ぐる所存か。恥を知るなら返し合わせて勝負仕れ。」と怒鳴りました。
「畠山の小倅、殊勝にも追って参ったか。」という義澄に「叔父上は、あの東の鎧摺に陣を布いて
お待ち下され。吾等は二百騎ほどにて鎌倉の浜面へ下って戦い、時によっては小坪峠に
追い込み、両方から挟み撃ちに致せば畠山を討ち取る事も容易でござる。また苦戦の折りは
ここまで引き上げて共に防ぎ戦う事も出来ると存ずる」というので義澄は百騎ほどで山上にて待機
することにしました、小太郎義盛は二百騎を率いて再び峠を下って浜辺へでました。
重忠も怒鳴ってはみたものの三浦党はそのまま去ってしまうと思ったところ
武門の意地ゆえ馬首を返して続々と降りて来るから今度は重忠も稲瀬川の陣まで
後退する事となってしまいました、しかし稲瀬川ではまだ布陣の真っ最中です。
そして峠を降りた義盛勢も浜辺に横隊、声もなく粛と前進します。やがて
滑川を飛沫を上げて渡り畠山勢と一丁の間をおいて対峙しました。
三浦勢が馬首をそろえいよいよ鬨をあげんとしたとき
畠山の中央から弓もつがえず太刀も抜いていない堂々たる武者がひとり
近づいてきました、そして50メートルほど近づくと馬上より
「武蔵党の一人。横山弥太郎。吾等が棟梁畠山重忠の口上を申す。
常日頃三浦の殿原とは敵味方と成り申す意趣もござらぬが、吾等の重能
および別当は平家によしみありて六波羅に伺候致す。しかるに三浦の方々は
この度源氏に与して佐殿謀反に応じるばかりか、昨夜は吾等が陣前を
人も無げなる広言吐いて通りしこと、これを見過ごしにしては平家に対しても
面目立ちさぬ。よって畠山・三浦姻戚なりとも合戦否み難し。さればこちらより
駆け寄せんか。またはそちらより先寄せられるか。しかと挨拶承りたい。」と言います。
ずいぶんのんきなようですけど、互いに顔見知りも多くそして卑怯な振る舞いもしたくはありませんから。
そして三浦方からは老巧の藤平実国を返事の使者に送ります。
畠山の陣前にて横山弥太郎と並ぶと、「そちらの口上確かに承った。されば和田小太郎義盛
が申すには、そちらの大将畠山重忠殿は吾が三浦大介義明の孫聟、義盛も大介義明の孫
でござる。いまこそ陣頭に相見えながらも親戚同士。母方の祖父に向かって戦を仕掛けるとは
如何なものでござろうか。また佐殿謀反と申され、吾等もそれに与したと申されるが、そちらは未だ
なにもご存じ無いと思われる。後白河法王より、平家一門を追討して天下平穏にせよ、との
院宣を佐殿は賜ったが故に兵を挙げたのじゃ。さればこれに敵対なさるは朝敵と同じ事である。
三浦一族が佐殿に御味方致すは当然のことなるぞ。これでも畠山方は戦うと申すなれば
相手に致そうが、縁戚のよしみなれば一言忠告致す。よくよく勘考なされて返答なされい。」
実国はとうとうと述べて悠然と戻ってきました。海風は涼しいですが砂はじりじりと焼け付くように
暑く兜を被っていると頭がぼーっとなるほどです。
畠山勢もいろいろと相談した結果、今度は半沢六郎成清が兜を脱いで背負った姿で
馬を近づけてきました・・・戦う前に暑さと兜の重さがこたえてきたのですね。
「そちらの申し条相わかった。言われる間でもなく秩父と三浦は親戚である。
ただ時世時節でそれぞれ源平二氏の棟梁に属せども、吾等両家敵味方に分かれる
理由も無し。佐殿生死不分明の今、なにも事荒立てて干戈を交える必要はござらぬ
佐殿存命とわかり申さば吾等も源氏方に応ずべし。佐殿討死と知りなば三浦方は
吾等に付き召されよ。よしなに平家に取りなし申さん。佐殿の消息分からぬに、私闘にも
等しき戦いを行いても詮無き事。よって今は両方同時に陣を徹すれば、互いに面目も
立つと存ずるが如何にて候や。」
暑さのために互いに戦意が失せてきたこともあるのでしょう、「なにもここで些細な意地の
張り合いで殺し合う必要も無い」と話しがつきました。
小次郎義茂
ところが、和平交渉以前に鎌倉の杉本舘「後の杉本城ですが
この時点では三浦の出城としての館を構えているだけで建武四年に斯波陸奥守三郎家長が
籠もって討ち死にした杉本城ではありません」
に母親に逢いに行って合戦の事や三浦一族の将来などを語っているところを
兄の義盛の使者に「合戦が始まるので急ぎ戻れ」と呼び戻され
義茂は驚いて従者七騎を連れて犬懸ヶ谷を懸け越えて名越に出ました
当時は若宮大路も小町大路もありませんから、杉本あたりから短い距離で
由比ヶ浜に出るには滑川の南の衣張山と功臣山の間あたりにあった犬懸坂という細い山道を
通って名越に出ていくことになります。義茂が名越に出て汗を拭きながら由比ヶ浜を眺めた時は
和平交渉が成立して三浦勢は小坪峠を登りつつありました。
浜の右の方の稲瀬川には、いつ布陣したのか赤い旗を翻した畠山勢があわただしく動いている。
冷静に判断すれば畠山勢は鬨の声も上げないし矢叫びもなく、殺気や緊迫した雰囲気もなくただ慌ただしく
動いているだけなのに気づくはずですが、そこは少年。戦いが始まるとのみ思って気が急いています
畠山勢ばかりいるのは三浦勢が撃退されたのであろうかと
「しまった戦に遅れたのか」滑川に沿って八騎一団となって浜面に駆けつけ、左を見ると
三浦勢はすでに小坪峠に上がっていて盛んにこちらに手を振ってなにか叫んでいます
小太郎義盛も峠に戻ってから振り返り、由比ヶ浜に豆粒の様に見える義茂達八騎を見て
小次郎義茂に使いを出していたことを思い出し、和平が成ったから戻らなくともよいと
再び使いを出すのを忘れていた事に気づいて「和平が成った以上は戦ってはまずい」と
酒家武やら手を振るやらですが、しかし義茂に取っては喚いているように聞こえるけれど
意味は分からないし手を振っているのは招いているのか「行け行け」と指図しているのか
一向に分かりません。畠山勢が集散して慌ただしく動いているのは、攻撃準備のためかもしれません・・・
義盛の合図は「畠山勢に懸かれといっているのだな」と判断すると、義茂は馬首を畠山勢の方に廻し
「戦の戦陣は吾等なり。それ懸かれっ。」と七騎をかえりみて、すらっと太刀を引き抜くと頭上に翳し
喚声を上げてまっしぐらに畠山勢に襲いかかりました。
驚いたのは畠山方です。灼け付くような暑さのなかを緊張から解放され、兜も鎧、腹巻きも脱ぎ馬の鞍おろして
馬の足を稲瀬川に冷やし、楯なども牛車に収納しようとしているところに、いきなり八騎が襲いかかってきた
ものですからたちまち六騎が斬って落とされ五人が傷つきました、
「卑怯なり三浦党の者共。和平を講じて油断させ伏勢で奇襲するとは。坂東武者の風上にも置けぬ奴
よしその儀なればあくまで戦って三浦の衣笠城まで攻め込むぞ」と混乱しながらも立ち直って、八騎を
包囲して矢を番えるものもでてきました。いくら奇襲とはいえ、八騎に五百騎ではかなうはずもありません。
矢が飛んでくるので的にならぬように慌ただしく突入しては右に左に馳せ返し、さつと駆け抜けて遠矢の
及ばぬところまで駆けて、波打ち際を背にして一息ついて、援軍やくるかと小坪峠の方を振り返る
峠からはこの様子がよく見える。義盛もこの有様に驚いた「しまった」と思っても、もう遅い。
早く引き上げさせなければ大事になる。叫んだり手を振ったのでは通じないから今度は暑さよけで
被っていた唐笠を皆で振るように命じ「おーい戻ってこーい。」と大勢で声をそろえて叫んだ。
義茂はこれを見て、鬨を上げているようでもあり「もっと戦え」といっている様にも感じたので、直垂の袖で
流れる汗を拭うと、「それ懸かれ」と先頭に立って突撃する。もうそのころは畠山勢も立て直し、鏃を
そろえて散々に射る。矢衾に飛び込むのは自ら死地に入るようなものであるから、義茂がいくら
血気盛んな少年でもそこまで無謀な事はしません、敵前に右に駆けたり左に駆けたり、迂回して
突入の機会を狙っています。これをみて小坪峠の義盛は気が気ではありません。こうなった以上
なにがなんでも小次郎義茂を助け出さねばなりません。
「小次郎をたすけよ。」 「義茂を討たすな。」 義盛の命を待つまでもなく、一族郎党続々と峠を下りていきます。
浜地に着くと散開して進みます。畠山勢はこれを見て、やはり予定のだまし討ちであったのかと余計に
怒りに燃え、稲瀬川の陣地から楯を押し出して前進します。義茂は援軍がくればしばし呼吸を整えようと
間隔の縮まっていく両軍の中央に渚を背にして郎党と馬を列べています。
三浦勢も次第に接近すると、楯を持った郎従を前面に押し出し、両軍ともに矢頃の位置で停止して射戦
に入りますが、三浦方には藤平実光という歴戦の矢軍の将がいて、第一回の矢戦は畠山勢に多くの
死傷者がでました。矢が多く命中すると畠山勢かひるみます、三浦勢は射懸けながら前進し、畠山勢は
応戦しながら少しずつ後退します。しかし二百騎に五百騎ですから、畠山勢の矢の数が多く次第に盛り返して
きました。この様子は、鎧摺にいる三浦義澄のところからも見えます。畠山勢が数を頼んで左右に広がり
鶴翼の陣形に移って三浦勢を包囲しようとしている様子が見えます。これは危ないと義澄は思うと、
こんなところで待っている場合ではないと悟って、「それ応戦せよ。」と百騎に命じた。鎧摺はその名の通り
二騎も併馬すれば山肌に鎧が摺れるぐらいに狭い坂道ですから、一騎ずつ駆け抜け九十九折りの道を
見え隠れしながら小坪口へでます。これを由比ヶ浜の方から見ますと山間を縫って続々と軍兵が現れる
ように見えました。畠山勢はこれを眺めて、的はわずか二百騎ほどと思っていたのに、安房・上総・下総の
勢が三浦党救援に続々と駆けつけてきたと感じました、壮年になってこそ戦上手と剛勇を謳われた畠山重忠も
この時は未だ少年でしかも初陣です。血気は盛んでも、判断力や戦の駆け引きについては未熟です。
あのように敵が湧くがごとくに押し寄せたら逆に包囲されて全滅してしまうと思いました。
重忠ばかりではありません、緒戦から不意打ちをくらって受け身であった畠山勢は浮き足だって
稲瀬川の陣の方に後退を始めました。これを見て烈火のごとく怒ったのが綴党の棟梁の綴太郎、弟の次郎
共に重忠の前に来て「このように主人を放って置いて、どしどし退却するようでは秩父平氏武蔵党の恥でござる
これはあの和田の小次郎という小倅を討ち取れば敵もくじけ、味方も奮い立つと存ずるなれば、それがし
一騎打ちの勝負を敵前で仕り、その首取って参らんと存ずる。」
と言い捨てて、太郎は馬に諸角入れて乗りだした。綴太郎というのは、八十人力と自負し関東では無双の相撲
の名手。四十八手を巧みに使い分け、したがって組み討ちには自信のある豪傑。
和田小次郎義茂は、両軍が間隔置いての矢戦が一進一退しているのを波打ち際で海を背にして「あら面白や」
と眺めている。どちらかが楯をはずして突撃したら懸かろうと、馬上で弓杖ついていたが、ふと左を見ると
大男が馬で近づいてきます。「和君は誰ぞ。名を名乗れ。」と澄んだ眸を向ける。
綴太郎は近づいてみて驚いた。先ほどあれほど見事に暴れ廻った若武者であるから、さぞかし
年相応の荒武者かと思っていたら、眉庇の下の顔は未だ紅顔の美少年です。
「吾こそは武蔵国の住人。綴の太郎と申す者。畠山殿に使えて未だ合戦に遅れを取った事なき者。
良き相手と見奉る。いざ。」
相手が聞こえた三浦の御曹司と思えばこそ鄭重な名乗りをあげたのに、義茂は冷笑して
「そちの主人畠山殿が参ったなれば相手も致そうが、汝がごとき郎党を明いてに致すつもりはない。退れ。」
今度は綴太郎が笑って、
「これは和田殿とも覚えぬ言葉。源平互いに世に聞こえたる数々の戦いあれど、郎党だとて大将に
勝負せぬというためしは無し。郎党と侮るなればこの矢立つか立たぬか受け手みられよ。」
とえびらから平根つけた大の中差の矢抜いて弓に番えると、馬を駆けらせてくる。これで射られたら
どんな堅甲でもひとたまりもあるまいと咄嗟に考えた義茂、
「なるほど。そちの申し条もっともなり。相手になってつかわすが、吾ほどの者を遠矢にかけるのは
豪の者のいたすところではあるまい。近く寄って組打ちせい。」
もう少しで矢を放つところでありましたが、これを聞いた綴太郎、髭面ほころばせて弓をゆるめました。
俺の相撲上手と力量を知らぬから組打ちせんとは、もう首をもらったも同然と、
「おう。望むところ。」
と答えて弓矢を渚に捨てて近寄ります。義茂もこれを見て砂地に弓を捨てました。
馬上の組打ちは、馬を並馬してから始まります。鐙と鐙がぶつかって二・三度蹴り合ったかと見る間に
二人はがっしと組みますが、二人共鞍壺に腰を沈めて引き合います。腰をうかせれば引き込まれます。
綴太郎は少年の力が強いのに驚きましたが、なにしろ八十人力と自慢する強力。捻り倒そうとしますが
義茂はするりと抜けてはつかみかかります。揉み合っていましたが組んだまま二人は両馬の間に
どうっと落ちました。綴太郎は手練れの者、転ぶことなく砂地に踏ん張り立ちますが、義茂も綴太郎に
まとわりついているので転びません。
「小癪な奴」と綴は上から押し潰すように力を込めると、義茂は身軽に体をかわして潜り抜けるように
腰に抱きつき、逆に押し倒そうとします。しかし綴は相撲上手ですから、片手を廻して義茂の上帯を
掴んで引き寄せ内搦みにしますが何回かけても抜けてしまいます。
やむをえず大渡しに跳ねますが、どうしたことか足早に立ち廻りますので利きません。
外搦みもかわされて、力を込めるたびに息が荒くなり疲れてきました。
がっしり四つに組んだら絶対倒せるはずですが義茂が素早くて技が掛かりません。真っ赤になって力を
込めるほどその力を利用されそうで、汗が目に浸み熱風のような息をした瞬間、義茂が相手の力を
利用しつつその方に内搦みを掛けたので、捻れるように前にのめって、小岩に足を取られて砂地に顔を
突っ込むように倒れました。
すかさず義茂が背中に乗しかかり、左腕を踏みつけ、左手で綴の兜の眉庇掴んで仰向きに引き上げると
いつ抜いたか右手の腰刀がきらりと太陽に輝いた時には、噴出する血潮のなかに綴の首は兜ごとはなれました。
腰刀を口にくわえて、首を持ち直すと兜は落ちて転がります。無念の形相の綴の首を傍らの小岩の上に置くと
さすがに疲れたのか、綴の骸に腰打ち下ろして呼吸を整えます。
綴太郎が義茂に近づいて行った時から両軍共これに注目していました。敵味方の中央での晴れの舞台です。
哀れ義茂も綴には簡単に組み敷かれて首を獲げられるぞよと畠山方も思いましたし、三浦方も義茂危なしと
はらはらしていました。そのため両軍とも注目してしばし叫喚、矢唸りが止んで、寄せては返す波の音が
時を刻むように響いていました。
三浦勢からどっと喚声が上がると、義茂はやおら立ち上がって、落馬したときのままにそこに立ち止まっている
自分の馬に寄り、鞍の四方手に綴太郎の首の髪を結び付け、弓を拾って乗馬すると、馬首を畠山勢の方に
向け、「やあやあ。武蔵党にて武勇を誇りつる綴の太郎を討ち取ったり。我と思わん者は参られい。相手するぞ。」
と叫びました。綴太郎の弟の五郎は最前よりこれを眺めていましたが、ことの以外さに真っ赤になって怒り
「退け」
と味方の楯を押し開かせて馬を走らせると「綴の五郎。兄の仇。見参せん。」
と矢を番えた弓を左手に高く上げて迫る。
五郎も兄に劣らぬ力自慢であることは有名でありますから、これに射られたらひとたまりもありません。
義茂はそのほうをきっと見て、「その方が綴の弟なるか。汝の兄は東国一の豪傑じゃ。わしは辛うじて
勝ったがもう力を出し切って汝と戦う力もない。汝に討たれてやるから、近寄ってわが首取って高名にせい。」
と言えば綴五郎、得たりや応と弓を捨て馬を馳せ寄せ、義茂にむんずと組み、ゆらゆらと揉み合っていたが
また馬と馬の間にどうっと落ちた。五郎は兄に劣らぬ相撲上手の剛力でありますが、少年の義茂にいかなる
技があるのか、落ちるときすでに五郎の上に重なっており、地上で組み敷いたと見えた時には腰刀が
きらめいて、五郎の首は血飛沫の中に離れます。電光石火の早業。鮮やかとも惨美ともいいようがありません。
しかし敵の剛力を二人も倒したのですから、義茂も疲労困憊です。
砂地に突き出た岩に腰を下ろして足下を波に洗わせながら方で荒い息をしてしばし無心でいると、
畠山の陣の楯の後で固唾を飲んで見ていた綴太郎の一子小太郎が、鐙に諸角入れてぱっと馳せだし
「綴小太郎。父、叔父の仇。覚悟っ。」
と砂を蹴立てて三段ばかりのところから犬追物射のようにひょうと射ます。
避ける隙なく立ち上がりかけた義茂の鎧の胸板に当たった矢は、の先砕けて跳ね返り落ちて波がさらっていきます
もう少しで喉を貫くところでした。続いて二の矢が来るのは必定です。
立ち上がれば的が大きくなるから、咄嗟に中腰になって草摺で脚部を隠し、射向の袖を前に。兜をうつむけにして
しころで顔を隠して、いかにも苦しげに、「親の仇とて掛かって参るは殊勝の至り。他人の手で我を討たば
汝の恥なるぞ。討たれて遣わすから早く寄って参れ。されど汝の弓勢にて遠矢では我が鎧を貫くことはできぬ。
近うよって我が首を討て。」というさまは、本当に疲労困憊して力尽き果てた様子。
綴小太郎は今しも二の矢を切って放とうとしていたが、これを聞くと引き絞った弓を緩め、手綱操ると
馬をとどめて飛び降りざまに弓うち捨てて走り寄り、俯いて岩に腰下ろしている義茂の兜をしたたか斬りさげた。
兜は割れなかったが、義茂は脳震盪を起こしそうになるのを堪えつつ、さっと立ち上がると相手にぶつかる
ように押さえ込み、また右手の腰刀が閃くと、小太郎の兜は首を納めたまま波打ち際に落ち、血を噴出した胴は
倒れて手足がけいれんする。鬼神の働き、見る者ことごとく白日の夢をみるごとく、呆然として声を出す者もなく
波の音ばかり。飛んでくる矢もなく、まるで戦を中止ごとくです。義茂の廻りには首無し武者の骸が三体、
まぶしい日の光にさらされ、砂地に血は黒々と拡がって海風すら生臭く。
義茂は五郎の首を馬の取っつけに結び付け、小太郎の首を、小太郎の持っていた太刀の先に貫き、
馬に乗るとそれを高々と差し上げて、
「今ここに畠山の陣前にて、名ある三騎を討ったる剛の者は誰ぞと思うらん。名乗って遣わすから遠からん者は
音にも聞き近からん者は目にて見よ。われこそは桓武天皇の苗裔高望王より十一代、王氏を出でて遠からざる
三浦大介義明が孫。杉本太郎義宗が子の和田小次郎義茂、生年十七歳なるぞ。我と思わん者は大将も
郎党とても差し支えなし。寄って来れよ相手せん。」
と朗々と呼びかける。十七歳の少年が、これほど剛勇の戦上手とは誰も思わなかったでしょう。
しかし往古の武家の少年は、十五歳前後でも戦争に赴けば、大人に互して少しもひけをとらない武勇を
示しました。源義朝の長男の鎌倉の悪源太義平も十六歳で叔父の帯刀先生義賢を討っていますし、頼朝も
十三歳で戦っています。また八幡太郎義家も、前九年の役の時は十八歳、もちろんみんなかぞえ年ですから。
畠山勢の大将重忠は、この時義茂と同い年です。初陣とはいえ秩父平氏の名門、武勇を誇る家柄ですから
同じ年齢の義茂に剛勇の部下を一騎打ちで次々と討たれては引っ込んでいられません。
壮年になってのち名将と誉れの高い重忠ですから、義茂に劣らぬ勇ましい少年ですからカッとなって
「おのれっ。三浦の義茂。わしが相手になってやる。」
とまなじり決して馬を乗り出そうとしました、楯押しのけさせてはるかの義茂に向かい、
「「やあ我こそは、和殿が名乗られしと同じ祖先、高望王の後胤、秩父十郎重広が三代の孫、畠山庄司
次郎重忠。幼名氏王。和殿と同じ十七歳。戦は今日が初めなるも、その誇らしげなる和田小次郎殿こそ
良き相手と存ずる。いで勝負仕らん。駆け合わせよや。」
と叫んで駆け出そうとしたので、本田次郎近恒が慌てて馬前に立ちはだかると轡を押さえて、
「若殿っ。いくさ場で命を惜しまぬにも時と場合がござる。まして三浦は当家と一門。些細の行き違いから
かかる合戦となりたれど、本来は意趣無き間柄。大将同士が戦っては戦がますます大きくなるばかり。
一門同士がこれ以上無益の戦をして、互いに多くの死傷者を出すことは避けねばなりませぬ。それがしが
この合戦納めさせますれば、ひとまずお引き下されい。」
と諌めますが、興奮した重忠は顔面蒼白にして目を引きつらせ、馬に鞭打ち、
「離せ。近恒。戦を仕掛けしは三浦からじゃ。我が郎党を多く討たせ、その上あの和田小次郎が広言。
許すわけには参らぬ。退け。離せっ。」と叫びますが、本田近恒も必死です。
両軍相当死傷者が出ているうえに、ここで大将同士一騎打ちさせてはどちらにとっても良くない。手違いからとは
いえ、源氏に応じた三浦とは一応戦ったのでありますから、京都の平家には形なりの面目がたちます。
互いの被害が増大しないうちにここら辺が手の打ち所です。畠山方としては少々歩の悪い合戦でしたが
今停戦に持ち込めば面目もたちます。
二人が揉み合っているところに鐙摺から駆けつけた三浦義澄勢が前進してきてやじりを揃えて
射込んできました。その矢の一つが重忠の馬の胸懸のはずれに射込まれ馬が竿立ちになって暴れ
よろめいて屏風倒しに倒れました。重忠は母衣を翻して飛び降り、いよいよ怒って徒歩立ちのまま太刀の柄に
手を掛けて走ろうとしたので、半沢成清が馬より飛んで降りて重忠に抱きつき、「若殿、我が馬に」
と自分の馬に押しやる。重忠がその馬に乗った途端に、成清はおもがい握ってぐるりと向きを替え、馬の尻
をたたけば、馬は稲瀬川に乗り入れ、成清に目で合図された郎党が心得て後を追います。
「成清。なにをする。」
と重忠は振り向きましたが馬の口取った郎党はぐいぐい川を渡って西走します。これで義茂と重忠の決戦は
避けられましたが、重忠にとってはピンチであったことは確かです。
「源平盛衰記」に「弓取りはよき郎党をもつべかりけり。半沢無かりければあぶなかりける畠山なり。」
と半沢成清の行為をほめる一文があります。
半沢成清と本田近恒は、飛来する矢の中を大手を拡げて楯の間から走り出し、
「やあやあ。三浦の方々に物申す。この合戦意趣を含みて始まりしものにあらず。ことの善悪互いに
了承して和解したるも手違いより戦となりたり。これ以上互いに無益の戦して無駄死にだすのは詮無き事。
ここらで互いに兵を引いては如何であろうか。そちらにて矢を納めなば当方も答の矢を射返すまじ。
双方ともにこの場を引き分けと致さん。」とさけんで臆せずに進めば、三浦勢も二人に矢を射掛ける事もなく
互いにざわめきながら矢は次第に収まっていきました。三浦義澄も近づいてくる二人に感心して、
「まことに無益の殺し合い。もとより望んで戦したにあらず。そちらが戦を好まぬとあれば強いて戦う必要は
ござらぬ。その方らの申し条は、その主人が申したことと受け取ったり。意趣を含まぬとあればこれにて相引き
きに致すであろう。」と返事をし、「者ども、矢を納めい。」と下知をしました。
これでようよう停戦となりましたが、三浦方では多々良三郎重春とその郎従十数人や石井五郎ら名のある
者が命を落とし、けが人も多くでています。
畠山方は綴兄弟息子の他に五十騎ほど死にました。わずかの間に双方とも一割の戦死者がでているぐらい
のなかなかの激戦でした。
三浦勢は本拠の三浦へ、畠山勢は武蔵へ引き上げましたが
しかしです・・・
このことに意趣を含んだわけではありませんが、やはり平家への面目がたちませんでしたので
数日後に畠山重忠は河越太郎、江戸太郎らとともに金子、村山、山口、児玉、横山、丹、綴党を糾合して
三千余騎で三浦の本拠衣笠城へ押し寄せてきました。
頼朝は生死不明のままです。孤立した衣笠城は苦戦で、重忠の外祖父にあたる大介義明は討死。
一族は船で安房に逃れました。ところが真鶴から安房に逃れた頼朝が馳せ参じた旧臣に擁されて武蔵へ
進出すると畠山重忠の立場は逆転しました。重忠は直ちに頼朝に帰服する志を明らかにして、
土肥実平、千葉常胤らの推挙によって許され、先陣を勤めて鎌倉に入りました。
以降頼朝の命令で各地に勇戦して武名を上げ幕府内でも重臣として重んじられましたが平家の面目のために
三浦と戦い大介義明を自滅に追い込んでおきながら幕府内で重用される重忠と三浦は仲が良くありませんでした
そして幕府内の席順では、左の席の一臈「日本では左が上位なので一番上の上席」が畠山重忠、右の席の
一臈が和田義盛でありましたから、これに憤慨した義盛は、
「畠山は由比ヶ浜の合戦の時に降参と言ったから、こちらも兵を退いてやったのである。降参したものが
左の一臈になり、勝ったわしが右の一臈になっているのは不届きじゃ。」
と言いました。重忠もむっとして、「わしは降参した覚えはないぞ。家来がなんと言ったか知らぬが、和平と
なって双方引いたまでじゃ。言いがかりも甚だしい。」と言い返しました。
ってな事が「源平盛衰記」に載っていますけど(
;^^)ヘ..。
しかしこのお話の小次郎義茂の子、高井三郎兵衛尉重茂「本当は義茂の弟宗実で実名は実茂」
が和田合戦の時に一族を裏切り北条方に付いて直祖朝夷奈三郎義秀「義秀は義茂の兄義盛の子です。」
と一戦交える事になります。
そのことについて和田合戦編を書きます。
和田合戦へ
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