管理人のご先祖☆三浦一族の話
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ここのページでは私の先祖の三浦一族の事について書いていきます
私がそもそもホームページを持ったのももうひとつ有名でない三浦一族をみんなに
もっと知って貰うためなので、このページが「義経の部屋」のテーマとなります。ですから
最初は三浦一族が何者かという事に入る前にまず鎌倉武士について知っていただきます。
「鎌倉武士」と言うと普通、三浦氏や北条氏のように鎌倉時代に鎌倉幕府で「鎌倉殿」に
仕えた御家人というイメージがあるとおもいますがそれだけではなくて地方に本拠を持って
鎌倉に宿館を構えていた武士、または、本領地を離れてほとんど鎌倉を本拠としていた
武士のことで本来は領主として自分の所有する領地の開発や経営のために山裾や谷戸
あるいは扇状地の中腹などに館を構えて「11歳以来狩猟を以て業と為す」と称した伊豆国
の工藤景光のように日常生活でも山野を駆けめぐっていたり、三浦一族のように海上交通
を掌握しての利益「海運業」とか水産漁業の統括とかで海での生活をしていたりしました
が「鎌倉幕府」が成立して都市鎌倉が発展してくるとここで最初に言った「鎌倉武士」
が誕生してきます。北条氏のように本拠を鎌倉に定め幕府の仕事に専念する都市依存型
の武士が誕生しました。もちろんそれ以前にも伊勢平氏や清和源氏の嫡流のように本領を
離れて都を活動の場としていた武士はいましたがしかし、かれらはいずれも武家の棟梁と
呼ばれた貴種なのです。そもそも武士とはなんなのでしょうか。中世武士論として、当時
の武士は芸能人でした。平安、鎌倉期にあって芸能という言葉は、広く技芸・技術・学問
などの才能と能力をさしていました。そして武士は何よりも「武」という芸によって他と自らを
区別した存在なのであって、武芸の基本は馬上の弓射の技術であったので、武士の事を
「弓馬の士」と呼ぶ事もありました。しかも「武士」と認められるには個人的に武芸に堪能な
だけでなく、「武士」であるためには「兵ノ家」の「家ヲ継ギタル兵」でなければなりません
このような意味での武士は12世紀頃にはまず、軍事貴族ともいうべき四位、五位の
中級官人と六位クラスの侍層で、彼らは衛府の官人、検非違使の尉、北面の武士
諸国の受領「国司」などの官職に就いていて、地方では諸国の在庁官人、郡司、郷司
荘官になっている者のなかに「兵ノ家」を構えるものがいたのです
しかし、だからといって武士は都市から起こったとも言えません
それは、12世紀に鎌倉幕府の草創に加わった武士達は、まごうかたなき
地方居住の武士達です。鎌倉時代後期に書かれた「沙汰未練書」は
鎌倉幕府の訴訟関係の用語や手続きを解説したものですが、そのなかに
一、御家人とは往来以来、開発領主として、武家の御下し文を賜る人の事也
一、非御家人とは、その身は侍たりといえども当役勤仕の地を知行せざる人の事也
と云う二項が見られます、幕府の公式見解として「武士」には、御家人と非御家人
の二種類があり、御家人は開発「根本」領主、つまり「地方の武士」で
非御家人は御家人のように領地を持たない「都の武士」という区別をしていました。
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