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検証 倶利伽羅峠の火牛の計
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このお話は「源平盛衰記」からですが、この火牛の戦法は「中国春秋時代」の田単将軍の
「火牛の奇策」が基になっていますが、この火牛の奇策の話しが載っている司馬遷の
「太史公書・太史公記」は平安末期のこの時には日本には入っていませんでした。
・・・しかしこう書くとみもふたもありませんから、少し検証してみますと、
まずこの戦法のために、現実問題として短い間に400から500頭もの牛を集めることが
できたでしょうか。「延喜式」の民部「交易雑物」越中国の条に、鹿革10張に並んで
履料牛革4張とあります、平安前期の貞観年間の記録に馬革100張はありますが
牛革は見えません。
「万葉集」などにも越中の500余りのうたの中に馬をうたったものはありますが
牛をうたったものはありません、越中方面の平野の開発は江戸時代が主で
農耕が活発な明治末期の「富山県民統計書」をみても牛は1300頭前後しかいません
またこの時期の砺波地方には150頭ほどです、これから考えると遙か平安の昔に
いきなり500頭もの牛を集めるとなれば全国規模でかなり長い時間をかけて大がかり
に集めなければなりません。
そして、古代の倶利伽羅峠は相当な難所で弊を奉って山神様の怒りを鎮め辛くも峠を
越すような所で、整備の全くされていない、けもの道でしかなかったはずです。
そんなところに
総勢10万騎の軍勢が退去して押し寄せればなにもしなくても山道を踏み外して
谷底に転げ落ちるものが続出するでしょう。・・・しかし義仲軍は地元の峠であるが故に道に
も通じ地形を熟知しています、ですから義仲軍は動かずともただ、鬨の声を上げて馬を鳴
かせ、物音をたてて、威嚇するだけで地理に不案内で勝手の分からない平家軍は自ら
谷底にばったばたと転げ落ちてくれます。
田単将軍の中国は大平原。火牛の計とは、牛の角に松明をくくりつけるのではなく、
「そんなことをして眼前に火があるのに牛は突進しません。」
牛の尾に油をたらした葦をくくりつけて、それに火を付けました。まさにお尻に火がつく
のですから牛は猛烈に突進します。
そして牛の角には剣をつけて、闇夜の中に放します、これが本来の火牛の計で
険しい山道の戦いにこの戦法を使えば敵の所にたどり着く前に牛が谷底に落ちて
自滅するだけです。
ましてや、山中で牛の角に松明などつければ、山火事になりますよねぇ・・・
そしてこの義仲の火牛の計は源平盛衰記にはあるけれど、平家物語のどこを見ても
牛の事は出てきません。
だからこの戦いは牛など使わなくても地の利を読んでいた義仲の作戦勝ちなのです、
しかし圧倒的兵力の平家軍がなぜにこうやすやすと敗れ去ったのか・・・
そこにこの火牛の計を結びつけて、こんな奇襲戦法を使われたのだから平家の
大軍が敗れたのはいたしかたない事・・・そのような言い訳にも聞こえます。
「ただしこの時代より後150年後に初めて太史公書・太史公記は伝わりましたから
室町次第の創作でしょうかね」
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