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三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡
○西浦賀 浦賀奉行所支配
高六百八拾壱石弐斗六升九合
内高三百五拾石弐斗五合│会津領文化八末│
戸数六百軒
鎮守叶大明神 逗子村延命寺末 別當│真言宗│感応院
此社は養和元年文覚上人石清水八幡宮を勧請し、頼
朝公願成就に依て叶明神と名く。本地虚空蔵菩薩に
して文覚上人の彫刻といふ。
此社の後の山文覚畑と云有、[是文覚上人の]旧庵
の所なり。此文覚上人と云は、東鑑に文覚は北面の
士遠藤左近将監持遠の子にて遠藤武者盛遠といふ。
十九才にて出家し、高雄山神護寺を再建せんとて勧
進帳を拵へ、後白川の法皇の在しける御所法住寺殿
え参て勧進帳を読上げ狼藉に及びける故に、承安四
年伊豆国に遠流せらる。故に頼朝公に対面して源家
再興を進めける。頼朝公天下一統の後、御免を蒙り
都え帰る。その後又後鳥羽院の御時、二の宮を御位
に付け奉らんと企て、此事露顕して、文覚上人は八
十五歳にて隠岐の国へ遠流せらるといふ。
禅宗 東福寺 沼間村海宝院末 本尊地蔵尊
故山[号]延命山といふ。此寺の持に観
音堂あり。三浦札所なり。御朱印三石
浄土宗 常福寺 鎌倉光明寺末
│此寺持に寿光院地蔵尊安置す。│
│同地蔵堂芝生と云所にあり。 │
久比里の鎮守若宮権現
此社は鎌倉大町に千葉介常胤の末流にて臼井宗右衛
門といふて│天照山光明寺の開基なり。│此宗右衛門
の弟惣左衛門と云者久比里に居住して鶴ヶ岡を移し
奉る。 外に木の宮小き石の祠あり。
伊勢宮 金比羅 水神宮
久比里浄土宗 宗圓寺 鎌倉光明寺末
開基は千葉介常胤の末流臼井惣左衛門法躰して満誉
宗圓といふ。一宇建立して臼井山宗圓寺と号す。天
文十八年正月十二日卒す。
千葉氏は桓武天皇の後胤高望の御子国香忠常といへ
り。人皇六十八代後一條院の御宇長元戊辰の年、河
内守信頼と戦ひ負て同四年京都へ登るとて、美濃国
赤坂の宿にて病死す。忠常の子二歳にて片山里に隠
れ住して、天喜五年頼義公不便に思召て尋ね出し千
葉忠胤と名乗らす。是常胤の祖父なり。忠常は妙見
を信仰す。故に此家の惣領は内股に九曜のごとくな
る痣有といふ。依て紋所に月星を付く。千葉介忠胤
源家恩顧の士にて、鎌倉右大将家の時は上総下総に
冠たる大名也しが、遙其後天正の比は小田原北條の
旗下なり。太閤秀吉公小田原の攻の時滅亡して後形
のなかりしが、東照宮関東御入国の節、下総千葉の
家小禄にも御取立有べき思召なり。正統の嫡子は無
きやと御尋有けるに、御當家末だ三州に御座有時、
千葉の家人京都へ使に登る時、池鯉鮒の渡にて喧嘩
し徳川家の人をあやめし事あり。此度の御尋は其節
の事にやと思ひ、正統の嫡子九歳になるを押隠し、
女子なる事申上ければ、東照宮甚だ残念に思召、百
人扶持御捨扶持を下されけるとなり。其時千葉家老
臣成田庄吉、海上三吉の両人後悔しけるとなり。今
御旗本に千葉有は別家なるよし。
吉井鎮守 安房口明神
此明神は社もなく石の鳥井一基なり。神躰は大石に
て山上に有り。其石に口ありて安房の方へ向く故安
房口といふ。又往古安房より飛来りしゆへ安房口と
云といへり。昔安房国洲の崎明神へ龍宮より献じた
る石二つあり。或時石工に命じて漱石に掘らせしに、
此石大に怒りて社壇も崩るゝ斗震動して、一つは三
浦に飛来り吉井に止り里民是を尊敬し鎮守と祭り、
一つは同国鉈切に止り今に存す。依て吉井に止りし
は安房の方に向ひ、鉈切に止りしは三浦の方へ向ふ
といふ。其口と云は石工の彫し水入の跡なり。今に
顕然なり。委しくは其年暦洲の崎明神の縁記に詳な
りといふ。
浄土宗 真福寺 鎌倉光明寺末
│開基一誉清向和尚
│
│享禄四卯年建立 境内に観音堂あり。│
三浦札所也。塔内に地蔵尊安置す。
当山鎮守 稲荷社 天神社
浄土真宗 法善寺 京都[西]本願寺末
開基法善坊 同所角井氏文亀二年建立
同寺末庵芝生 阿弥陀堂
沼田城跡 此所を台崎といふ。三浦大介の出城の跡なり
といふ。其側に船蔵と云所あり。軍船を置し所也。
│的場或は馬隠し畑称といふ所あり。│
浦賀御番所 浦賀海関豆州下田より引て享保六丑年二月
朔日より諸廻船改始る。元禄[四]未年三崎走水よ
り海関引て[豆州]下田海関の中三十年なり。
舘浦御米蔵│御代官大貫治右衛門御支配│
陣屋山御林 此山下を長屋といふ。是は長谷川七右衛門
忠綱の陣屋跡といふ。此山へ愛宕を勧請す。故に愛
宕山と云。│外に吉井山御林一ヶ所あり。│
高坂弁天堂│是は東浦賀東林寺持也│
│○東浦賀
│
│ 高六拾弐石六斗七升壱合
│
│
内弐石七斗九升五合分郷 文化八未より会津│
│ 戸数四百戸余 領に成る
│
鎮守 若宮明神
別當永神寺真言[宗]京都三宝院配下
西浦賀叶大明神と同躰同徳なる由
│畑ヶ中│不動堂 別當満宝院│京都三宝院配下│
玉泉院 西浦賀常福寺持也
浄土宗 東林寺 鎌倉光明寺末
此寺境内に稲荷社有り。霊験新にして村中に怪異有
時は予め告あり。依て崇敬すと云。
同宗 法幢寺 鎌倉光明寺末
同宗 専福寺 鎌倉光明寺末
浄土真宗 乗誓寺│京都西本願寺末│
│薬師堂 同村東林寺持│
○内川新田 [大貫次右衛門御代官所]
高五百八拾五石四斗弐升四合 戸数八拾四戸余
│此村往古入海にて芦原多く一円汐入の場所なり│
│万治二年砂村新右衛門といふ者開基す。
│
鎮守 天神宮│砂村善六組 │
水神宮│宮井与兵衛組│
│修験仙蔵院 東浦賀永神寺配下│
○八幡村 元松平大和守領
高三百弐拾九石壱斗七合 戸数七拾八戸余
鎮守 八幡宮 御朱印三石 同社に天王の御輿あり
神主大井氏
浄土宗 長安寺 鎌倉光明寺末 [此寺に不動尊有り。
運慶の作 往古は丸山に在て大伽藍地の由]
浄土宗 正業寺 鎌倉光明寺末 [此寺に観音有り]
修験光明院 [不動尊を安置す]│東浦賀永神寺配下│
[飛井薬師堂 此昔は大寺の由申す。近辺に礎の石今に
有。久里浜伝福寺の持なり。]
○久里浜村 [松平大和守領]
高百八拾五石壱斗弐升 戸数百三拾余
鎮守 住吉明神 別當正法院修験真言
東浦賀永神寺配下
東鑑に曰、治承六年八月十一日御台所御産の御祈と
して佐原十郎義連を以て神馬奉納あり。此若君を一
萬君と申すなり。後頼家公二代将軍と申し、正治元
年より建仁三年迄御治世五年。又元暦二年正月二十
一日頼朝公御宿願に依て栗濱明神え御参詣、御台所
伴なはしめ給ふと見へたり。又曰治承四年八月二十
六日三浦一党衣笠城を出て、栗濱より纜を解て出帆
し安房の国へ越しと見へたり。
浄土宗 傳福寺 鎌倉安養院末
観音堂 千手観音 弘法の作│三浦札所也│
○久村 元松平大和守領
高百拾壱石三斗弐升七合余 戸数十八戸余
鎮守 御瀧権現社│浦賀御奉行支配│
此社は御瀧五郎を祭といふ。神躰は馬乗束帯せし御
姿也。中昔廻国の修行者、此社に宿し神躰を盗み立
退しといふ。今の神躰は其後に作りし也。社の側に
瀧あり。此瀧を祭と云。御瀧五郎城跡は下平作にあ
り。
観音堂
千手観音慈覚大師の作といふ。腹蔵に一寸弐歩の歓
喜天あり。秘尊の由。此堂の前なる山を経塚といふ。
先年此所より瓶一つ堀出す中に書有、朱を以て是を
詰たり。其節雨中にて其朱流れ出たり。紅の色をな
す。里人驚き恐れて逃去る。其書は旧して分らず。
只平の字のみ瓶に付て有しといふ。其瓶今に[伝来]
す。依て経塚山千手院と号す。又むかし此山に丸山
不動といふて伽藍有し由。其時の金剛力士の二像大
破になりて、今観音の堂中にあり。其不動は何つ移
しけるや八幡の長楽寺にあり。運慶の作なるよし。
日蓮宗 等覚寺 身延山末
此山後の山を矢切の峯といふて、一の沢に開山禅誉
上人乃宗なり。念徳寺といふ旧庵のよし申伝ふ。
○佐原村 松平大和守領
高三百七拾石四斗五升五合 戸数六拾五戸余
鎮守 御霊権現
此社は鎌倉権五郎景正を祭ると云。奥州軍記に人皇
七十三代堀川帝寛治の頃、奥州武衡家衡勅命に随は
ず。源の義家に命じて誅せらる時に、景政十六歳に
して義家に随ふ。鳥海弥三郎[に]左の眼を射られ
ながら其矢を抜ずして追蒐、終に鳥海を射落す。古
今稀なる勇猛なりとて御霊権現と祭るなり。
聖徳太子堂│浄土宗 久比里宗圓寺持也│
日蓮宗 常勝寺 金谷村 大明寺末
同宗 正覚寺 同派
佐原十郎義連の舘跡を台畑といふ。
山上の口を殿の入といふ。
佐原太郎景連の舘跡を太郎崎いふ。
風早の里に風早入道の舘跡有り。
香山観音堂 同村常勝寺の持也
本尊運慶の作 慈眼寺 此堂所甚絶景なり。
女臈屋敷 是は三浦光村の室は後鳥羽院北面の士醫王左
衛門能成の女也。他に比びなき美人といふ。此後室
舘跡也。
盛信の舘跡有り 盛信は佐原光盛の子息にして北條時輔
の縁者也。時輔京都にて逆心を起し、赤橋義宗が為
に討る。盛信此由を聞て文永五年二月自害すと東鑑
に見へたり。
○大矢部村 元有馬図書知行所
高弐百八拾五石六升弐合余 戸数五拾戸余
鎮守 御霊明神
此社は三浦大介義明、和田義盛を祭る
近殿明神 是は今鎮守といふ
三浦平六兵衛義村を祭るといふ
深谷圓通寺
是は三浦長門守為通の開基にて、前は寺有しが大破
に及びて、今は廟所のみ残る。此山の絶頂に大なる
洞穴有り。唐仏の瀧見観音を安置す。此観音常には
清雲寺に有りて六拾壱年目毎には深谷山に移して開
帳有り。文化十酉年迄十一度開帳すといふ。此山中
央より頂迄洞穴夥しく有りて、其穴毎に五輪あり。
是三浦一党の墓也といふ。其姓名清雲寺の記にあり。
宝物
法華経曼陀羅 圓満院宮御筆
三浦為通公御太刀一振
拾六善神掛物 弘法大師の筆
鳥海弥三郎矢根 為次公筆短冊弐枚
定家卿御直筆 御歌巻物
聖徳太子御作 阿弥陀如来
恵心僧都筆 勝軍地蔵
三浦為次経仏 恵心の作薬師如来
三浦義澄公太刀一振
禅宗 清雲寺 鎌倉圓覚寺末│御朱印二石│
此寺は為通の嫡男三浦平太郎為次の開基なり。天仁
元甲子年七月二十二日行年五十六歳にして卒す。
法名 清雲院殿天山為次[公]大禅定門
此為次は権五郎景正[に]頼まれ鳥海が射たる矢を
抜んとするに抜ず。依て膝を掛て抜んとす。景正怒
て勇士矢に当て死するは常也。抜ずんば止べし。我
を足下に掛たるは奇怪也とて短刀を以て刺んとす。
為次感じて無礼のよしを詫て抜と太平記に見へた
り。為次の息を三浦太郎義次と云。平治元年二月二
十二日行年九拾三才にて卒す。
法名 圓通院殿大勇義次[公]大禅定門
│右深谷山圓通寺廟所破壊せし故寛政年中三浦家よ│
│り再興あり。
│
禅宗 薬王寺 同村満昌寺末也
此寺は平朝臣義澄の開基也。正治二年正月二十三日
義澄七十四才にて逝去也。
法名 薬王寺殿義澄公大禅定門
東鑑に元暦二年正月十二日平家追討として蒲冠者範
頼公に随ひ、三浦介義澄子息平六兵衛義村、和田小
太郎義盛、同三郎宗実、同四郎義胤、大田和三郎義
成其外の勇士等長門の国え到り、又同三月二十九日
九郎判官義経兵船を催し、壇の浦さして纜を解く。
三浦介此由を聞、只壱人義経公に参会し命を請て壇
の浦より乗船す。是衆人に勝れし忠勤なりと義経伝
有りと見へたり。
御霊木 是は大介の腹切松と云。今は枯てなし。
轡田 是は大介の乗馬此所にて倒れしといふ。
山頂宮 是は大介の乗馬を祭るといふ。
禅宗 満昌寺 鎌倉建長寺[末]
義明山と号す。 御朱印三石。
此寺は頼朝公御建立。治承四年八月二十六日三浦大
助義明行年八拾九才にて逝去
法名 満昌寺殿義明公大禅定門
東鑑に建久五年甲寅九月二十九日頼朝公三浦大介の
没後を弔んとて、右京進仲業を以て矢部の里に一宇
を建立し給へると有り。世俗に三浦の大介百六ツと
は、大介の十七回忌の時満昌寺において頼朝公より
御供養あり。大介の歳八十九年[に]十七回忌の十
七を加へて百六ツと今の世迄も云なり。
宝物
大介義明像 佐原十郎義連彫刻
大介禅帷子 日出弁天 唐佛
達磨大師像 文武孔子三像
釈迦如来 各義連彫刻
三浦家始祖は人皇五拾代桓武天皇の王子葛原親王一品
式部卿の末葉三浦平大夫為通也。後冷泉院御宇康平年
中、奥州安部貞任反逆の時、源の頼義に属して軍忠あ
り。恩賞として三浦を領し始て三浦と号す。永保年中
奥州の国主武衡謀反の時、頼義公嫡子八幡太郎義家誅
す。為通の長子平太郎為次、同子息荒太郎義次父子、
義家公に従て軍忠あり。恩賞として長門守に任ず。彼
荒太郎義次の息三浦大介義明は、鳥羽院の御宇、御藻
の前と申て上を悩す。安部の保成加持し、忽化して野
狐と成り野州那須野に走る。三浦介、上総介退治の命
を蒙る。三浦介義明射落して後、其霊変じて石となる
といふ。義明は三徳を兼六芸に通じ頗天下の名士也。
夫に依二十三世の孫紀州の家臣三浦長門守為積、寛政
十午年正月元日満昌寺に廟参し給ふ。
天正十八年関東北條滅亡の時、三浦道寸より七代の孫
正木庄兵衛為春は、上総国の勝浦に有りて家没収せら
る。然れ共道寸の武勇を思召し出され、三浦と称すべ
き由公命有て、三浦長門守為春と号し紀州頼宣卿に付
る。一万五千石領しける。此為春より五代為積の時、
大矢部御霊明神の社、近殿明神、薬王寺、清雲寺廟所、
深谷観音閣の洞、岩戸観音、金田村平六兵衛の石碑等
再興あり。
○衣笠村 鈴木兵庫頭知行
高百八拾石 戸数四十戸余
鎮守 蔵王権現 天平年中行基菩薩勧請
御霊明神 大六天の宮 秋葉権現 三社
観音堂│日本札所│百番の観音を安置す。
禅宗 大善寺 小矢部[村禅宗大]松寺末 御朱印三石
此本尊不動明王は、三浦平太郎為次八幡太郎に従ひ
東征の節血戦して武勇を励の砌、此明王現して敵よ
り射る矢を悉く取捨給ふ。依て為次高名を顕とぞ。
夫より矢取不動と称す。三浦義次社頭[を]造営す。
衣笠の城は、康平癸卯年長門守平大夫為通此三浦を領
し衣笠に居城す。其子平太郎為次、荒太郎義次、嫡子
三浦大介義明に至て代々居城す。其後清盛天下を管領
し奢を恣にす。播磨守義朝の三男右兵衛佐頼朝、永暦
元年三月豆州に配流せらる。源氏党を催し彼平氏を誅
すべきのよし、治承四年子四月二十七日高倉の宮の令
旨を給る。康平六年より治承四年迄百七十年、治承四
年より文化九年迄六百二十七年、前後合七百四十四年。
治承四年八月二十日、安達籐九郎盛長、頼朝公の御使
として院宣の文を偲て諸国へ触られける。盛長此衣笠
へ来て院宣のよしをいふ。折節三浦義明風気にて有け
るが、佐殿の御使と聞て浄衣に立烏帽子を着し、御教
書を頂戴し、某九旬に及で源氏の代にならん大慶是に
過ず。悦敷御事也とて嫡子義澄、大多和三郎義成、佐
原十郎義連、和田小太郎義盛、同次郎義茂、多々良三
郎義春、佐野平太義幸を始として子弟一族の[郎等を
召集め是を拝せしめ、三浦の存亡は源氏の興亡に有と
て]馬一疋鎧一領盛長に引れける。
治承四年八月二十三日、三浦次郎義澄、佐原十郎、和
田小太郎以下の一族、三浦を出て石橋山へと来向す。
丸子川辺に至りけるに石橋山の合戦源氏すでに敗北の
よし聞へ有り。此故に郎等を遣て大庭三郎景親が家を
放火して路より馳せ帰るの処、鎌倉由比ヶ濱にて畠山
重忠に行逢ひ数刻挑み戦ふ。多々良義春郎等石井五郎
討死す。重忠の郎等も五十余騎命を落すとなり。
同二十六日、畠山重忠より河越太郎へ触[遣]す。此
河越太郎重頼は次郎なれども秩父の家を相続す。依て
是に組して衣笠の城へ攻来るよし風聞有り。是を聞て
三浦一族悉く衣笠の城に引籠り、東の木戸口には三浦
義澄、佐原十郎、西の木戸口は和田義盛、金田大夫頼
次、此頼次は上総介廣常の弟にして此度三浦家に加勢
す。中陣には長柄太郎義景、大田和三郎義久是を囲む。
同日辰の刻河越太郎攻来て[三浦]党と挑み戦ふ。大
介義明物見より戦を見て、寄手の内金子十郎家忠衆に
勝れ城門の際迄攻来て働きければ、大介下知して銚子
盃取持せ、金子に進めて曰、此酒をたまふて一合戦い
たさるべしと云。金子大ひに悦び三度ほして謝して反
す。軍中に酒を送るは礼なりといふ。
三浦の輩は昨日由比の濱にて大に戦ひ、今日数刻の合
戦に力疲れ矢種尽て、半更に望で城を開き大介義明を
相具せんと欲す。大介曰、吾源氏累代の家人として源
氏再興の代に逢う事何ぞ是を嘉しざらんや。吾命既に
九旬に近し余算幾許ならん。老命を頼朝公に投て子孫
に勲功を譲らんと欲す。汝等急ぎ此城を落て頼朝公の
存亡を尋ぬべし。吾壱人城に留り、敵どもに一当当て
武勇の名を此城に残さんと云ければ、義澄以下涕涙し
立兼けれ共、父の厳命背き難く、城を出て久里浜より
乗船し安房国へ越ける。
同二十七日辰の刻寄手鯨波作て攻寄る。城中物静にし
て防兵なし。河越[太郎城中に乗り入れば、大介義明
敵に向て曰、吾老命旦暮にあり。子孫]一族共は不残
城を出たり。立寄て首を取よとて大介押肌ぬいで自害
す。河越太郎馳寄て首を取る。
同九月朔日大庭三郎景親、数千騎を率て衣笠へ押寄る
といへども、義澄以下の勇士渡海の跡なれば空く引き
帰ると也。
│頼朝公石橋山の軍敗れて伊豆の真鶴より乗船して安│
│房へ渡らせ給ふ。三浦義澄以下海上にて行逢ひ互に│
│欽事限なし。夫より房州洲の崎に着船し給ふ。丸野│
│五郎、安西三郎案内して九月五日に上総介廣常が舘│
│に入御給ふと東鑑に見へたり。
│
三浦家系図
桓武天皇十代
為通嫡男
為通 三浦平大夫康平六年
為次 三浦平太郎
三浦郡領衣笠に居城
為次嫡子
義次嫡子
義次 父為次武功に依て
義明 三浦大介忠勤
賜義之字
に依て衣笠に
自害す
義明嫡子
[義澄嫡子]
義澄 三浦荒次郎三浦介 義村 三浦平六兵衛
別当、一万町領之
駿河守精兵也
十万石也
義村の嫡子謀反し三浦党滅亡す。
義村二男
[朝村嫡男]
朝村 駿河小太郎兵衛尉 義行 式部
兄泰村と一味して自害
行経 太郎 朝常 平四郎 朝胤 彦三郎
[正胤 平六郎] 重明 平四郎 正明 式部
[重村 平六五左衛門] 正村
平六五左衛門
正重
五左衛門は三州刈屋に住す。妻女は刈屋の城主
水野下野守信元の娘也。信元横死して女子流浪
せるを妻とし、男子出生し甚太郎正次と云う。
正重嫡子
正次
甚太郎 元和年中佐倉城主土居大炊頭利勝の
方にあり。依て将軍家え召出され、下野於壬
生二万石領。後志摩守と号す。
[正次八代]
前次
志摩守 文化元甲子年九月先祖の廟参として
三浦大矢部満昌寺に参詣あり。
○岩戸村 元本多主税知行
高七拾五石六斗八升五合 戸数拾弐戸余
鎮守 熊野権現 上の山の中に巴御前の塚あり。
禅宗 満願寺 大矢部村満昌寺持。此寺は佐原十郎義連
開基といふ。
義連法名 満願寺殿義連大禅定門
此寺は往古は大伽藍のよし礎の石今に存す。山上に
観音閣有。観音、地蔵、不動、毘沙門の四尊を安置
す。佐原十郎を観音に祭り、巴御前を地蔵に祭り、
和田義盛を毘沙門に祭り、朝比奈三郎を不動に祭る
と云。四尊共に運慶の作也。
○野比村 [鈴木兵庫知行]
高三百六拾八石四斗壱升 戸数百四拾参戸余
鎮守 白髭明神
此社は猿田彦の命を祭るといふ。神事六月十五日
生船明神社 諏訪明神社 天満宮社
此所海面に大島出作根と云二ッ磯水中に有て廻船折々
難破船有り。又屁コスリ坂纔の間なれ共難所也。
浄土宗 最宝寺 京都西本願寺末
境内薬師如来安置す。別當飲食寺
此五明山最宝寺は右大将頼朝公の祈願所にして、人
皇八十二代後鳥羽院御宇鎌倉に草庵あり。天台宗の
霊場にして開山明光上人也。明光父は大職官鎌足の
末葉泉州の国司信濃守季平六世の孫頼康の四男な
り。母は清和天皇の後胤伊豫守源義朝の女也。十五
歳にて剃髪す。頼朝公鎌倉高御倉[に]最宝寺御建
立、本尊薬師如来、天台宗なり。承元年中親鸞上人
の弟子と成り一向宗に改宗す。其時薬師如来を此野
比村に移し供料拾六石、別當飲食寺。最宝寺は鎌倉
に有て兼帯す。寺領永楽四百貫太閤秀吉公禁札山内
にあり。
聖徳太子御自作二歳の木像、是は北條時頼公御寄附。
明徳年中太子堂再建の御教書あり。此等大永年中の
乱を避る為野比村に移る。其節兵火の為に古書等悉
く焼亡す。今纔に十巻存せり。
一向宗 称名寺 此寺│三浦の札所也│
観音堂有り。
最宝寺末
同宗 高徳寺 同寺末なり
同宗 最蔵寺 最宝寺末なり
同宗 最光寺 京都東本願寺末なり。
│元最宝寺末改派し東派となる│
此寺は昔し相州高座郡清沼にあり。開基は圓達上人、
中興は圓光上人。三浦大介義明帰依に依て衣笠へ移
る。天台宗也。其後一向宗に改む。衣笠城の後此所
へ移る。
千駄崎稲荷明神
│此社の内に昔しより狐の尾ありしが、中古其尾二│
│ッにきれて俣となる。里俗怪て地頭へ訴しと云。│
│今はなし。
│
○長沢村 元久世丹後守知行
高五百三拾壱石四斗壱升 戸数弐百弐拾九戸余
鎮守 富士浅間の社 熊野三社権現 春日大明神
若宮権現の社
日蓮宗 本行寺 金谷山大明寺末
│浄土宗 地蔵院 此寺は津久井法蔵院の末│
○津久井村 大貫次右衛門支配
近藤吉左衛門知行 久世大和守知行
高七百弐拾四石四斗四升五合 戸数百五十戸余
鎮守 天王社│山王社│
禅宗 荘厳院 本尊は不動明王運慶作、貽中に愛染明王
の像あり。智證大師彫刻也。
此不動明王は、三浦大介末子佐原十郎義連武運守護
の尊像にして、治承壽永の合戦に数度武功を顕す。
其後三浦前陸奥守道寸入道相伝て信敬し、網代の城
中に安置す。此城北條新九郎氏長に攻られ落城の時、
此尊像敵の為に奪ん事を歎て子明禅師に与へて当寺
に安置す。
真言宗 東光寺 逗子村延命寺末。此寺に津久井家の墓
あり。文字一向不分。
此寺に行基菩薩の作、薬師如来、地蔵菩薩二尊あり。
二王門に金物の金剛神あり。
浄土宗 法蔵院 鎌倉光明寺末
│同宗 往生院 法蔵院末 本尊阿弥陀郡中七尊の内也│
津久井の次郎舘跡あり。此津久井家は三浦荒太郎義次
の二男津久井の次郎義行と云。其二男二郎高行、其嫡
子四郎義道、其嫡男四郎高重は承久の乱に北條時房の
供にて高野山へ登る時、佐々木廣綱と組で引分れ、郡
司太郎と又引組指違て死す。
○上宮田村 元鈴木兵庫知行 [大貫次右衛門支配]
高六百拾七石三斗四升五合 戸数弐百三拾戸余
鎮守 [諏訪明神]
笹塚不動尊 御朱印三石 社司松原石見。
│此尊像御丈二尺八寸座像、安阿弥作│
浄土宗 十劫寺 江戸芝西応寺末
│此寺は昔しは真常寺と云。天火にて法堂悉く本尊│
│とも焼失す。元和元年松原氏再建し寺号十劫寺と│
│改む。
│
一向宗 来福寺│京都東本願寺末 元野比最宝寺末│
此寺和田義盛の菩提寺と云。
同宗 光信寺│来福寺末 │
浄土宗 正覚院│十劫寺配下│
│三樹院 本尊三浦札所観音 │
薬師堂│地蔵尊│[別府の宮│根の神]│
○菊名村 [松平大和守領]
高弐百石四斗三升弐合 戸数六拾四戸余
鎮守 白山権現 別当修験天台大法院
│小田原玉瀧坊配下│
禅宗 法昌寺 沼田海宝院末 此寺正観音像あり。
海中出現の由│三浦札所也│
浄土宗 永楽寺 津久井法蔵院末 此寺に地蔵尊あり。
此所の濱に琴の音といへる磯あり。此磯海中に在て清
水湧出り。昔法昌寺の観音上らせ給ひし所とぞ云。其
霊水今に湧出る。
濱に蛭子の宮あり。
○金田村 [大津新右衛門知行]
高四百三拾壱石壱斗弐升 戸数百五拾戸余
鎮守 走湯権現社 別當修験天台教法院
│小田原玉瀧坊配下│
浄土宗 圓福寺 鎌倉光明寺末
[此寺に地蔵尊有]
禅宗 福寿寺 塔中南光院
此寺は三浦平六義村の開基也。守本尊有り。寛政十
午年紀州家臣三浦長門守再興也。
義村法名 南光院殿前駿州大守義天良村大居士
暦仁元戊戌二月五日逝去。
此地蔵尊は三浦駿河守義村の守護佛也。人皇八十一
代安徳天皇壽永の春二月、平家の一族追討の為、源
家の大将義経に属して三浦党摂州一ノ谷に馳向。鵯
越の山路に迷ふて道を失ふ。然る処此地蔵尊義村の
馬の頭に出現し給ふ。此故に峨々たる嶺を越て絶頂
に至る。諸軍駿足を並て暫く猶予す。爰に義村の伯
父佐原十郎義連に謂て曰、日来念じ奉る所の地蔵尊
今目前に現じ給ふて、早く此坂を馳下すべしと告給
ふとぞ云、義連一諾して真先に馳下すを、続ひて義
村及び諸軍須磨の城へ攻入り、千門万戸忽ちに烟と
なし、公候百士海上に漂流す。偏に此地蔵尊の霊徳
也。故に此尊[像]を勝軍地蔵尊と称し奉る。義村
は勇敢にして福寿延命也。是を以て福寿と号す。夫
勇敢は陽也。陽は則南方に向ふ。故に義村の法名南
光院殿と号す。此寺の本尊は、行基の彫刻正観音並
恵心僧都の彫刻薬師如来を安置す。
禅宗 清伝寺 本尊観音│札所也。鎌倉建長寺末│
○松輪村 元松平大和守領
高弐百拾石九斗六升 戸数百戸余
鎮守 神明社 社書抄曰、伊勢大神宮は人皇十一代垂仁
天皇丁巳二十六年十月倭姫神託を蒙りて天照大神を
伊勢国渡会郡宇治の里に移し奉る。今の内宮是也。
倭姫は垂仁の皇女にして寿命七百余才。人皇二十二
代雄略天皇二十二年九月十六日倭姫神託に依て天中
主の尊を山田の新田に移し奉る。今の外宮是也。内
宮より四百十八年後也。
剱明神の社は大神宮の草薙の剱を祭る。熱田の神を勧
請す。
禅宗 福泉寺
観音堂 [正観音]行基の作│寛永寺。札所也│
○毘沙門村 元水野右近知行
高弐百九石四升弐合 戸数七十三戸余
鎮守 毘沙門の社 慈雲寺[持]
│神明社 天王社│
堂ヶ島正観音│札所也│ 行基の作。
禅宗 慈雲寺 鎌倉圓覚寺末
同宗 海應寺 同寺末
○宮川村 元松平大和守領
高百四十四石壱升壱合 戸数七十余
[鎮守 神明の社
八景原と云絶景の地あり]
此村の民家に一向宗の開祖親鸞上人の真筆身代の名号
とて、帰命盡十方無量光如来の十字名号有り。中古此
家の妻常に信仰して、昼は賤業をなし夜は名号を薪部
屋に掛ヶて拝をなし、名号を唱ふ。人目を偲ひて毎夜
薪部屋へ通ふ事時久し。亭主是を怪て跡を付て伺ひけ
るに、密に私語声頻也。是正しく密夫を忍せ置しと思
ひ、立帰り山刀を携へ行て無二無三にさし殺す。妻は
アッと一声喚て倒れ伏す。亭主刀をさし通したる儘に
て内に帰れば、女房は針仕事をして納戸に居れり。亭
主不審に思ひ、是狐狸の所為かと疑ひて火を灯して薪
部屋を見れば、こは如何に。名号の光の字の処に刀を
差通してあり。夫より懺悔して夫婦心を合せ名号を尊
ひ敬ひける。夫より遠近老若諸人聞て参詣今に絶ずと
なり。
○向ヶ崎村 元上原新三郎知行
高五十七石壱斗八升九合 戸数七十戸余
鎮守 諏訪明神
禅宗 大椿寺 京都妙心寺末
此寺観音有り。運慶作│札所也│
椿の御所、昔し頼朝公椿を植させ給ふ御山荘を建て
給ふ故に椿の御所といふ。三崎に桜の御所、二町谷
の桃の御所皆御遊覧の地也。東鑑に建久五年甲寅八
月三崎の津へ渡御有りて御山荘を建給ふと見へた
り。
○三崎村 浦賀奉行所支配
高四拾弐石弐斗壱升弐合 戸数五百四拾戸余
鎮守 海南明神│神主大井和泉守 下社家小坂因幡│
御朱印五石
│大井数馬│
昔此濱へウツロ船にて流れ寄る神あり。村里の者海
の藻苅に出て是を取上奉て海難明神と崇。此社南へ
向ふ故にて後海南明神と改むるといふ。神主大井氏。
神事毎歳十一月申の日
此氏子の習にて出居外と云事有り。忌服有時は神事の
日一日我家を出て外に在をいふ也。古来より仕来りと
いふ。
此三崎は郡中の南海へ浮み出ツ。安房国洲の崎東海中
に出づ。伊豆の国洲の崎は西海中に出づ。三方出崎鼎
の三足の如し。因て[其三つを取て此処を三崎と云。]
毎年正月十六日百万篇興行す。是は此所の漁士名も知
れざる大魚を取帰りて、村中挙て魚肉を喰ふ。其夜よ
りして漁士等病事頻也。時に阿碩和尚来遊して百万篇
を施行す。其功徳に依て病忽ち平癒す。是を例として
毎年興行す。
御船安宅丸の船霊は今西の山といふ所の鎮守に崇む。
│一向宗│ 最福寺│京都西本願寺末也│
此寺はむかし桜の御所跡にて、頼朝公磯崎へ出御有
りて御遊覧有りし所、山桜の暮を惨み給ふ所なりと
て今に花暮磯崎といふ所也。
東鑑に建久五年八月朔日、頼朝公三崎の山荘へ渡御有
りて、北條殿父子、上総介、小山五郎、三浦平六、佐
々木三郎、梶原以下供奉し小笠懸の興あり。射手は下
河邊庄司行平、小山七郎朝光、和田義盛、八田左衛門
友茂、海野小太郎義氏、藤澤二郎清近、梶原景季、愛
甲三郎季[隆]、榛谷四郎重朝、橘次公成、里見冠者
義成、加々美次郎長清射之。
宝蔵山の御所 此山は其後北條新九郎入道早雲の城有し
故北条山と云
御台所、若君を伴しめ給ふ。三浦介義澄珍膳美を尽
して経営すと云。誠に此処は眺望無双の景地也。
同六年正月二十五日、頼朝公御船にて三崎へ出御、同
二十七日還御。
春は桜の花咲乱れ、磯山景色御遊覧として頼朝公、頼
家公正治元年迄度々渡御し給ふ。
建暦二年三月九日、実朝将軍御台所伴しめ三崎へ渡御。
寛喜元年四月十七日、頼経将軍磯山御遊覧として相州、
武州始め御供には駿河前司義村領主として御案内申さ
る。将軍家は御船に召れて管弦有。
北条五代記に永禄八年北条氏康三崎御見物として浦々
より引船数千艘催して、氏康氏政御船にて御出と有り。
同記天正四年三官と云唐人、北條氏政虎の印を頂戴し
て同六年寅七月黒船三崎の津へ着岸す。検使として小
田原より安藤豊前守参て改之と有。
北條山は新九郎入道早雲の持城にして、北條美濃守氏親
居城す。永正十四年より天正十八年迄七十五ヶ年、
北條五代相統す。
弘治二年小田原より番兵として船大将梶原備前守、其
外梶原兵衛少輔、北見刑部丞、山本信濃守、古尾谷中
務少輔、三浦五郎左衛門、三富源左衛門等相守るの処、
同年安房国より里見義堯の養息左馬頭義弘を大将とし
て、兵船八十余艘に取乗高野嶋より纜を解て押渡し、
城ヶ嶋へ陣を取る。此由小田原に告知せければ、加勢
として富永四郎左衛門、山角紀伊守、横井越前守馳来
り里見家と戦ふ。其日[里見家」利運なりけるが、軍
は翌日と相定め互に引取ける。其夜大風雨にて寄手の
兵船吹流れ再び戦事能わず。安房国へ引取ける。
海南明神
貞観六年九州探題藤原資盈、惟高惟仁位を争ひ、伴
大納言の為に左遷せられ、主従五拾四人船七艘にて
霜月朔日此所に着船す。海上より梶取楫を投けるに
此所に止る。依て鎮座し給ふ。故に山号を楫谷山と
云。楫取を楫三郎と祭て城ヶ嶋にあり。御嫡子の船
は安房の国へ着。鉈切明神と崇む。城ヶ嶋洲の崎の
御前の宮は其時の水主を祭ると云。
海南明神の神領は三浦平太郎為次寄付す。
建久三年三浦平六兵衛義村修覆あり。霜月朔日遷宮。
永保九年七月二十一日兵火の為に焼失す。其時宝物
等悉く焼失す。
北條山の麓は氏康次男美濃守住居の後は、向井将監の屋
敷にして、其後は代々御奉行屋敷なり。
小濱屋敷 是は小田原北條家の内南條因幡守住す。後に
は小濱民部此所に住居す。故に小濱屋敷といふ。今
本瑞寺境内。
千賀屋敷 是は北條家の内梶原民部少輔住居、後に千賀
孫兵衛住居す。依て千賀屋敷と云。今能救寺境内。
兵庫屋敷 是は向井兵庫助住居也。
天正十八年、太閤秀吉公の時九鬼大隅守大将として此
城へ攻寄る。北條の城此時落城すと北條記に見へたり。
三崎御船奉行
向井兵庫、千賀孫兵衛、間宮虎之助、小濱民部相勤
む。
海関の跡 源家光公の御代、此所へ海関建給ふ。
元禄四未年豆州下田へ引る。此時は與力五騎、同心
三十人宛。
禅宗 本瑞寺 上総国久留里圓覚寺末。
荒次郎守本尊の地蔵菩薩あり
此寺網代道寸の息荒次郎義意左の位牌あり。
法名 大龍院殿玄心安公大禅定門
│浄土宗 光念寺 鎌倉光明寺末 │
一向宗 圓照寺│京都東本願寺末│
親鸞上人の十字の名号あり
│同宗 浄称寺│
○城村 間宮造酒丞拝領地
高三石壱斗三升余
│修験真言 城法院 浦賀永神寺配下│
鎮守 住吉社
観音堂 十一面観音 恵心作│札所也│
○中町岡 [松平大和守領]
高四拾七石六升余
観音堂 正観音 聖徳太子の作│三浦札所也│
○城ヶ島 [浦賀奉行支配]
高三拾三石五斗 戸数六十九戸余
此嶋の長さ拾四丁余、此嶋の海士海底を潜りて鮑を取
て作業とす。是を蜑と云。又泉郎と云。昔し尉といふ
者住故に尉ヶ嶋と云しを頼朝公城ヶ島に改め給ふ。
海南勧請の宮 楫の三郎宮 洲の崎御前宮
遊ヶ崎 是は頼朝公御遊覧の地也。故に遊ヶ崎といふ。
笠ヶ嶋 釜嶋 千鳥嶋 平嶋 赤羽根嶋 蛇嶋
江の子嶋 養老 水垂
一向宗 常光寺│三崎最福寺末│
里見義弘屯の跡
諸国廻船目当の燈明あり。享保六丑年より篝に成る。
御代官掛り。
安房崎むかし狼煙屋あり。
棍柏 此昔頼朝公御遊覧の時御箸を指し給ふ木也。
○東岡村 近藤吉左衛門知行所
高百拾八石九斗弐升六合 戸数弐拾五戸余
馬宮山
○二町谷村 [上原新三郎知行]
高百六拾六石弐升六合 戸数七十戸
一向宗 真福寺│京都東本願寺末│
│同宗 長善寺 同前
│
禅宗 見桃寺 京都妙心寺末 本尊地蔵尊なり
此昔し桃林有りて、頼朝公御遊覧の地也。此寺向井
将監此所を知行せし時菩提寺也。
日蓮宗 大乗寺│金谷村大明寺末│
○原村 稲垣内記知行 松平大和守領
高百五拾七石三升九合 戸数三十戸余
鎮守 海南寺 三崎にあり
観音[堂] 如意輪[観音]、恵心作│三浦札所なり│
身生寺地蔵 是を身代地蔵と云。永正年中に北條早雲と
網代道寸と合戦の時、兵壱人此所に遁来て地蔵堂に
隠れけるに、追手の兵尋来て是を探し出して忽ち首
を刎て帰る。隠たる兵は人声止ける故、堂の下より
地蔵菩薩を念じながら這出て見るに、地蔵菩薩の御
首切落して有しかば、信心肝に銘じて剃髪して地蔵
坊身七と云。
○諸磯村 大貫治左衛門支配 大津新右衛門知行
高百七拾六石四斗九升四合 戸数七十戸余
鎮守 神明宮│別當修験天台光宝院 玉瀧坊配下│
観音堂 正観音、恵心作│札所也│
○網代村 [松平三七郎知行所]
高三百七拾七石七斗五升四合余 戸数九拾戸余
鎮守 白髭明神 別當修験真言妙法院│永神寺配下│
此社の下に奇石あり。其色玉の如く、小石を以て叩
く時は金声を発す。
禅宗 海蔵寺 沼間村海宝院末
此寺の本尊十一面観音行基作 札所也
同宗 永昌寺 此寺三浦道寸入道の菩提寺也
油壺の湊 千駄洞 是は道寸の兵粮入なり
引橋 鐘楼台 合図の鐘を撞し所なり
陣場ヶ原 北條早雲の陣取し所と云
網代新井の古城跡 此城跡の出崎に三浦陸奥守道寸入道
義同の塚、子息荒次郎弾正少弼義意の塚あり
文亀九年八月十三日[相州岡崎の城北條早雲に攻落さ
る。永正九年八月十三日]三浦郡小壺住吉城北條早雲
攻落。永正十五寅七月十一日網代新井城滅亡。
此新井の城と云は、西南北の三方を白波立て岸を洗ひ、
山高く巌嶮阻にして鳥ならで翔り難く、城の廣さは三
十丁四方、東一方は纔に平地続き是に堀を深くし引橋
を掛て、此橋を引時は何万騎の軍兵にて攻る共、容易
に落べき要害に非ず。
北條五代記に相模国岡崎の城主三浦陸奥守平義同入道
道寸は文武二道の名将也。子息荒次郎弾正少弼義意を
三浦新井の城に籠置て、其身は岡崎の城に居住し管領
の命に随ひ、相州中郡を領し勢ひ遠近に双なし。此岡
崎の城は頼朝公の御時、三浦大介義明弟悪四郎義実の
居城也。三浦の一門数代の住所にして堅固の要地なり。
子息荒次郎は上総国の守護真里谷三河守の聟にて、隣
交の盟ひ厚して相模国は申に及ばず、武蔵国の兵迄来
り伏す。爰に小田原北條早雲何とぞ道寸を亡して相模
国を平均せばやと思ひ、文亀九年八月十三日大軍を催
し岡崎城へ押寄しかば、城中より三浦、和田、大森の
面々各切て出、敵味方の鯨波大山も崩るゝ如く響渡り、
三鱗と中白の旗と入交て、十文字に破り通り巴の字に
追廻し、東西南北馳違て命を惜まず戦ひしが、運命斯
に尽たりけん。さしも大剛の三浦勢散々に打破られ、
一二の木戸も攻落されて詰の城に籠りける。道寸も自
害せんとする処に、家の子郎等走り寄、一先此城を落
て重ねて兵を催し、此無念を晴し給へと諫ける故、搦
手より忍出て、三浦小壺の住吉の城へ[落行。]再び
軍兵を催し合戦に及ぶと云へども、一陣破て残党全か
らずの習なれば道寸終に討負て、永正九年八月十三日
住吉の城も攻落され、秋谷の大崩にて支たり。此大崩
と申は高山崩て海に入り、片岸道有りて一騎打の場所
也。されば幾万騎にて向ふ共防ぐに便り有り。然れ共
早雲大軍を率し間道を越て散々に攻破る。道寸叶はず
して網代新井城へ引籠り堅固に城を守り居ける。早雲
三ヶ年の間攻けれ共要害能れば落難く、是非なく三崎
宝蔵山へ向城を築て通路を取切攻ける故、是より城兵
難義に及びける。
此時江戸城主上杉修理大夫朝興久しく道寸寄手に苦し
めらるるよしを聞て、後詰して[追]佛んと五千騎を
引率して相州中郡に旗を靡せし所に、北條早雲此由を
聞て八千余騎を中郡へ押出し、卯の刻より未の刻迄戦
しかば、朝興の軍勢大半討れ右往左往に遁れ帰る。
新井城中には兵粮尽て後詰の援兵を頼みに思ひしに、
上杉勢打負て引帰るのよしを聞て、城中の者は力を落
し、北條方には最早恐るゝ敵あらじと数万騎の軍兵を
以て新井城に押掛り、逆茂木を引のけ木戸を破て攻入
ける。大森越前守、佐保田河内守大手の木戸を固め居
けるが、道寸入道の前に至りて申けるは、上杉家の後
詰は敵に討れし故敵は益々勝に乗り、味方は力労れぬ
れば最早此城も保難し、一先城を落上総国へ渡り、荒
次郎殿舅なれば真里谷を御頼み有て、重て軍勢を催し
此城を取返し給ふ策を廻らし給ふべしと勧めければ、
道寸答て曰、当家は三浦大介義明より源家累代の重臣
也故に、此所に主となり一門[大名九十三人の門]葉
五百人に余れり。十一代の後胤三浦介時高に至て、関
東武士を語らひ公方持氏に叛て御所を放火す。此時時
高も大名となる。我は上杉高救の男にして三浦時高の
養子なり。継母に男子ありて其子を世に立んと斗て我
を害せんとす。依て小田原総世寺に行、出家して道寸
と云。然所老臣等来て我を進る故、明応三年九月二十
三日夜、養父時高を殺害して此城を奪ふ。養父は公方
持氏公を亡したる罪によって天命尽て我に亡され、我
は養父を討たる罪に依て天の助なし。仮令此城を落た
れば迚運傾て天命遁難し。此道理を弁ず不覚して人手
に掛り犬死せんよりは、此城を枕とし花々敷討死せん
と思ふ也。命を助らんと思ふ者は勝手次第に落行べし。
我且て恨み思わずと申されば、大森、佐保田も詮方な
く、然ば最期の御盃を玉はり冥途黄泉の御先立仕べし
とて、主従百余人の人々終夜酒宴し浮世の名残をおし
みける。荒次郎扇を開て
君の世は千代も八千代もよしやよし
幻の中夢のたはむれ
と押返し舞ける。実に哀れを催したる舞の袖かなと互
に面を見合て皆泪をぞ浮めける。人々数盃を傾れば早
夜も東雲と明渡り物凄くこそ見へにけり。早北條の軍
勢一度にどっと鯨波を作り木戸、逆茂木を押[破り曳
々声にて攻入ける。城中の者共大手の門を押]開き切
先揃て切て出、竪横無尽に追まくりければ、先陣の五
百余騎追まくられて引退く。早雲下知して新手を入替
入替攻立る。城兵必死の鉾先なれば、寄手の兵四角八
方へ打立られ、馬の足を立兼たり。爰に北條家より唐
綾威の鎧に三枚兜の緒をしめ長刀かいこみ神谷雅楽頭
知重と名乗て真一文字に押寄て、道寸と押並て無手と
組。道寸は聞ゆる大力なれば物共せず優さ敷若者哉我
手に掛り冥途黄泉の供をさすべしと綿かみ掴かんで手
に提け鞍の前輪に押付、首捻切て捨られたり。子息荒
次郎は世に八十人力と聞へし若者、身の丈七尺五寸筋
骨太く逞しく、其出立厚さ弐分鍛の鎧を着し、龍頭の
兜、月毛の駒に覆輪の鞍置てゆらりと打乗り、五尺八
寸正宗の刀を抜かざし寄手の真中へ喚て馳入、敵を撰
ばず切て廻る。此勢ひに辟易して三丁斗も引退く。寄
手の手負死人道路に充満す。此間に道寸城に引入て常
に好るゝ道とて和歌一首詠せらる。
討つものも討るるものも土器よ
砕てのちはもとのつちくれ
と時世を残して六十一歳を一期として文廣和尚取建の
小庵の辺にて腹十文字に掻切て果られければ、荒次郎
も今は心安しと、頓て追付奉らんとて只一人突立上り、
一丈弐尺の棒八角に削り筋金を渡し末にいぼを植たる
手比の棒を引堤、門外にゆるぎ出たる有様、眼は血を
濯ぎ髪は左右に振乱し、生年二十一歳さしも勇気の骨
柄にて大音に呼りけるは如何に。寄手の者共最早城中
には皆自害して味方一人もなし、我只一人残りたり。
立寄て生捕高名せよと天地に響く大音にて呼りけり。
其勢ひに恐れけん寄手は皆相立て進む者一人もなかり
ける。荒次郎彼棒を打振て敵中へ馳入薙て廻る。其棒
に五人三人宛薙倒しける故、寄手蜘の子の散如く逃退
く。其隙に荒次郎城中に立帰り、鎧脱捨て押肌脱、我
手に首を掻落してぞ死にたりける。此首小田原へ[飛]
行て北條家の松の枝に掛り、血眼を見開き三年迄白眼
詰て居たりける。依て総世寺和尚彼首に向て一首をつ
らねらる。
現とも夢とも知らぬ一睡り
うき世の隙をあけほのゝそら
と詠じ回向せられければ、其首眼を閉白骨と成にけり。
此首を祭りて一社を建て威髪大明神と崇となり。
三浦大介七男 義連三男
義連 佐原十郎 盛連 従五位下遠江守
盛連五男
盛時 母は矢部の禅尼、北条時頼の時三浦泰村叛に
依て滅亡す。盛連の子三人は幕下に参る。武
功に依て盛時へ三浦介を賜る
[盛時二男]
嫡男
頼盛 三浦次郎左衛門
時明 三浦上総介
従五位下
法名道朝
[時明四男
[嫡男]
時継 三浦太郎兵衛
高継 三浦太郎
相模次郎に組
法名[法]紹
で討れる ]
嫡男
嫡男
高通 左衛門尉
高連 左衛門尉
従五位下
嫡男
[高明二男]
高明 三浦左衛門尉
時高 三浦介、永享十年
法名一紹
関東武士持氏公に
背、鎌倉を放火す
高救 三浦弾正少弼、実は上杉持朝二男三浦を継。
後上杉に帰り房州正木に住す。在名を以て子
孫家号とす。
義同 三浦陸奥守道寸 義意 三浦荒次郎従五位
従五位下
下弾正少弼
義意六代孫
為春 天正十八年寅関東乱に没収。東照宮三浦武勇
を称し給ひ、公命に依て三浦長門守と号す。
[紀州頼宣卿に附られ一万五千石を領す。]
三浦長門守五代孫
為積 犬之助、任長門守。寛政十年、先祖廟参とし
て[大]矢部満昌寺へ参詣す。
大森、佐保田並びに其子弐人が切腹したる所を今四人
塚と云。
道寸の城跡百間余の間、今に至る迄草も刈らず田畑に
もせず。毎年七月十一日には此所陰風起り瓢風烈しと
云。
○三戸村 元水野右近知行
高三百六拾四石壱斗九升 戸数百戸余
鎮守 諏訪明神
此社前の濱に九尺四方も有る大石あり
│浄土宗 霊川寺 津久井法蔵院末│
│一向宗 宝徳寺 野比村最宝寺末│
浄土宗 光照寺 鎌倉光明寺末
│同宗 福泉寺 同上│
和田家の余類進藤隼人の末孫此村に有り。此隼人は建
暦和田の乱に鎌倉にて討死せりとて墓[鎌倉]光明寺
にあり。
○下宮田村 水野右近知行 鈴木兵庫知行
稲垣籐四郎知行
高六百三十石余 戸数百三十戸余
鎮守 若宮明神 毎年八月十五日神事相撲あり
飯盛乳母神 此社の森海上へ見ゆる。廻船小船も目当に
なる森なり。
真言宗 妙音寺 逗子村延命寺末
此寺網代道寸乗鞍あり、並びに道寸入道彫刻の爼不
動則不動の後に爼の如く足あり。
│同宗 安楽寺 妙音寺末│
宮田太郎舘跡 今元屋敷と云。宮田太郎は佐原時連の子
孫なり│元屋敷に龍山寺云虚無僧寺あり│
日蓮宗 実相寺 同宗 延寿寺│二ヶ寺鎌倉大覚寺末│
○入江新田 [松平大和守領]
高弐拾四石壱斗八升
○和田村 元御代官支配
高三百七十五石九斗六合
元上原新三郎知行
高六拾七石九斗四升五合 竹[下]村
元本多三次郎知行
高三百九拾九石弐斗壱升五合 赤羽根
戸数百五十戸余
白旗明神社 是は和田義盛の氏神也
│修験真言 一宝院 永神寺末│
浄土宗 天養院 鎌倉光明寺末
日蓮宗 大泉寺
│毘沙門堂 天養院相郡中四毘沙門なり│
薬師堂│安楽寺│
矢矯 是は和田義盛の馬場跡
空池 和田古城の[堀]跡
大手橋今は小橋也。
義宗嫡男
義盛 和田小太郎従五位下弁左衛門尉。武功に依て
侍所の別当となる。相州の内一万七千丁を領
す。十七万石のこと也
同二男
同三男
義茂 小次郎。千八百町を領す。 宗實 小三郎
一万八千石なり。
同四男
同五男
義胤 小四郎
義長 小五郎
義盛嫡男
常盛 和田新左衛門。和田合戦に破れし時甲斐国に
落行、坂東山にて自害す。
[二男]
義氏 和田次郎。和田合戦の時義盛と一所に討死す。
同三男
義秀 母は巴、木曽討死の後和田に嫁す。朝比奈を
産む。義秀力量万人に勝れ、和田合戦の時御
所の総門破る。軍破て後船に乗て安房へ渡り、
浪々して越前若林に住し、後高麗へ渡るとい
ふ。
[四男
五男
義直 金窪四郎左衛門
義重 和田五郎兵衛
父と共に討死す
父と共に討死す
義盛の愛子也
六男
七男
義信 同六郎兵衛父と
秀盛 和田七郎父と
共に討死す ]
共に討死す
[八男]
義国 和田八郎父と共に討死す。
常盛嫡男
朝盛 和田新兵衛、将軍実朝の愛臣也。和田合戦の
時、将軍に向ひ弓を引事を歎き、出家して実
阿弥と号し京都をさして登りけるを、祖父義
盛怒りて四郎義直に下知し手越の駅より引返
す。
軍破れて祖父を始め一族悉く討死の後、
│将軍家に謁し父が企逆意ならざる旨申達し、│
御免を蒙り親族の菩提を弔ひける。
義盛弟義長男
胤長 荏柄平太、鎌倉荏柄天神前に屋敷あり。故に
えがらと云。建仁三年六月朔日伊豆国伊藤ヶ
崎に大なる洞穴あり。其深き事不知。頼家将
軍怪み給ひ、胤長に命じて見せしめ給ふ。巳
の刻に彼穴に入、酉の刻に出て云、此洞入事
数里暗して日光を見ず。爰に二ッの大蛇を見
る。郎等一人絶死す。胤長刀を抜て斬殺すと
云。
東鑑に健保元年正月、執権北条義時諸大名依怙あるの
聞へあり。是に依て信濃国の住人和泉小次郎親平憤り
て、三浦等の大名を語らひ、尾張中務の幼君を大将軍
に致さんと企て[ける]。同年二月十五日密使を勤け
る安念坊と云者、千葉介[に]生捕れて義時に渡さる。
白状に依て荏柄の平太も同類の聞へあり。由利八郎に
命じて胤長を生[捕]る。和田義盛同三月九日一族を
引率して御所に参り、胤長御免下さるべき由願ふ。義
時の曰、胤長は今度企の張本なりとて山城判官の手に
渡し、一族の座前を緬縛の儘引渡す。同十七日胤長を
奥州岩瀬郡に配流せらる。健保元年四月九日配所にて
誅せらる。
│此胤長の荏柄の屋敷地を将軍へ願て義盛拝領し、是│
│にて少し憤りを散しける処に、北條義時是を猜で尼│
│御台所へ申立、郎等数多遣し義盛の代官久野谷の次│
│郎を追出し、荏柄の屋敷を取上しとなり。是より義│
│盛忿怒頻にして、北條一類を亡し此恨を晴さんと企│
│有と聞へければ、将軍驚給ひ、│同二十七日御使として
宮内兵衛尉公氏、和田の舘へ参て子細尋らるる由を申
されければ、義盛答て曰、上に於ては全く恨に不存、
唯北條の所為傍若無人の間子細を尋ん為近日発向すべ
きのよし若輩等群議せしむ。義盛度々諫ると云へども
一切不用。故無拠同心なし乎ぬ。此上は力に及び不申
と答らるるなり。爰に三浦平六兵衛義村兄弟は始め義
盛と一諾して同心の起證文を出すと云へ共、忽ち変心
して今親族の勧めに依て、累代の主君を射奉る時は天
の譴遁るべからず、早く先非を改て内議の趣を告知ら
せ申べしとて、直に北條の舘へ参りて告申れけるに依
て、[尼御台所並]御台所営中を去て鶴ヶ岡別当坊へ
入給ふ。
同日申の刻に和田義盛、嫡男常盛を始として三浦の一
党縁族等東西に[起り]、将軍家の幕下を襲い、目指
す所は北條義時也。将軍家を救ひ奉れと軍勢三手に分
ち幕府を囲み攻戦ふ。相模修理介泰時大将として、同
次郎朝時、上総三郎義氏等防戦す。然る処朝夷奈三郎
義秀惣門を破り南庭に乱れ入、御所に火を放ちて室屋
一宇も不残焼亡す。依て将軍家法華堂に入御し給ふ。
大官令、義時も御供に候せらるる。此間排戦、就中朝
夷名猛威を振ひ壮力を顕す。敵する者は死をまぬがれ
ず。五十嵐小豊治、葛貫三郎、新野左近、礼羽蓮乗以
下義秀の為に害せらる。
此時在鎌倉の諸大名、近隣の御家人等追々幕府の御陣
へ馳加て大軍と成り、入替り入替り攻戦ひしかば、三
浦一党は入替なく次第次第に亡びければ、今は是迄な
りと大軍の中へ割て入、爰を最期と相戦ふ。和田義盛
は江戸左衛門尉義範が郎等に討る(六十七才)。和田
四郎左衛門義直は伊具馬太郎盛重に討る(三十七歳)。
同五郎兵衛義重三十四歳、同六郎兵衛義信二十八歳、
同七郎秀盛以下七人の者は囚人となって誅せらる。朝
夷名義秀は乗船して安房の国へ渡り、嫡男常盛、古郡
保忠は戦場を遁れ甲斐の国坂東山に遁れ自害す。和田
朝盛入道我望にて出家して、将軍家御免を蒙り、討死
せし一族の菩提を弔へける。此時和田一門滅亡に及び
ける。
此度軍功のものへ賞として和田の一族闕所の地を配分
し下さる中に、北条泰時一人踏み止りて苦戦したる功
として奥州園田の庄を給りしかば、一旦御請して御朱
印を返す。依て泰時を召て御尋有。泰時の曰、此度の
動乱義盛全く将軍家を恨み奉ての争に非ず。父義時の
阿党を悪みての事也。某迚も父子の間に候ずば品に因
り義盛に一味仕るべし。唯眼前に父を討せん事のせつ
なさに粉骨を尽し防戦仕候。是父の為にして少も君の
御為に忠義を尽せし事に非ず。何の忠有て恩賞を請奉
らんや。依て返上仕候。願ば某へ給はる地を以て、此
度亡びし輩の怨恨を宥弔料となし下さらば、莫大の御
仁恵に候と落涙して願ひける。依て亡士の弔泰時の心
次第と御出さる。
○高円坊村 元鈴木兵庫知行
高弐百拾八石弐斗七升 戸数八十戸余
鎮守 山王権現 別当修験真言大法院
東浦賀永神寺配下
大神宮 勧請社 稲荷社
一向宗 五却寺│本尊弥陀│ 札所也
│上宮田│来福寺持也
○須軽谷村 元有馬図書知行
[高百五拾七石八斗七升八合 戸数六十戸余]
鎮守 八幡宮 天王社 此所天王ヶ谷と云
日蓮宗 法道寺│金谷大明寺末│
向畑圓乗寺地蔵│妙音寺持也
下宮田村の内飯盛にあり│
○長井村 元松平大和守 堀求馬知行
高九百七拾石八升四合 戸数五百七拾戸余
鎮守 熊野三社権現│別当修験天台慶蔵院
玉瀧坊配下│
│本尊不動 七尊の内
│
観音堂 正観音弘法大師作 満願寺地蔵
浄土宗 長慶院│光明寺新末 札所也│
同宗 不断寺 同前
│同宗 長井寺 同前│
一向宗 長徳寺│京都西本願寺末│
同宗 弘誓寺│同前
│
同宗 勧明寺│京都東本願寺末│
│浄土宗 慶應寺 不断寺末
│
三浦長井家は佐原遠江守四郎左衛門光盛と云。此光盛
は佐原盛連四男也。三浦若狭守前司泰村(義村嫡子)、
│秋田城之介と威を争ひ叛逆して三浦家滅亡す。佐原│
│十郎義連の孫四郎左衛門光盛、五郎左衛門盛時兄弟│
│三人、兄泰村に組せず。│
北条時頼の御所へ参向す。
其賞として三浦家相続す。
佐原光盛孫
政盛 従五位下
貞連 長井六郎左衛門
長井八郎左衛門
時連 長井次郎と云
東鑑に頼経将軍鎌倉五大堂を御建立あり。長井左衛門
大夫将軍に供奉すと云。
○武村 元有馬図書知行
高四百弐拾弐石弐升弐合 戸数五拾戸余
鎮守 三嶋明神 走湯権現の社│吾妻大権現│
武山不動尊 別当持経寺 当村東漸寺持
当山不動明王は横枕の一堂に御座有し処、修験者夢
想の告を得て浄地に移し奉らんと此山へ安置す。
浄土宗 東漸寺 御朱印三石 鎌倉光明寺末
此寺に長嶋肥前守の位牌と云物あり。
武の二郎の舘跡あり。今篠山と云。此所に一騎塚と云あ
り。是は建暦中和田の乱に武の二郎乗馬に鞭て只一
騎鎌倉へ馳着しと。乗出したる所とて一騎塚と云。
与三の舘跡あり。今与三畑と云。是は芦名家の内にて与
三明連と云人居し所也。
狢塚 越水 八ッ暮坂
是は大庭三郎景親軍兵を率て衣笠城へ攻来る所、早
三浦の輩開城し安房の国へ渡海の後なれば、空しく
引返す所に、途を失て此処の細道へ差掛りければ、
俄に四方八面暗く成、山水漲り出て道路に充満す。
騎馬武者は馬の太腹を越し、歩卒は水中へ漂る。諸
軍周章騒て高所を尋称、木の枝を便りて水難を遁れ
んと見苦敷有様也。爰に従卒の内に丸山角太夫とて、
常に易学を好み筮を致しけれ共さして信用する者無
りしが、恐しき時の神頼みにて、貴殿平日易道を好
まるるが、此洪水は何の所為なるかと筮して玉はれ
と頼ける。丸山も木の枝に取付ながら此水難を考見
るに、山谷より水湧り、是は山水蒙の卦にて四方八
方暗き形也。又逆筮して見れば水山蹇の卦にして足
なえ難の象也。兵等口を揃へて、夫は考ず共知れた
る事也。能心を静めて占へ給へと云ければ、角太夫
眉をひそめて曰、先我主人は三浦の輩に家を焼れ、
今三浦に攻来り此水難に逢ふ。是火水未済の卦にし
て最早当家も済仕迫の象也。逆筮にする時は、水火
既済の卦にして算木能組合満る時は天道是を闕と云
て、終り乱るるの象也。さすれば平氏今盛んといへ
共亡んこと目前也。[其平家に従う主人に長く勤る
時は長世は覚束なし。早思慮をめぐらし玉へ]と云
ければ、兵等互に目と目を見合て溜息をついて居た
りける。程なく天明々と明渡りければ、充満したる
水も一滴もなく成ければ、山の絶頂木の上より下て
辛き命を助りける。三浦大介の寛仁大度にして、殺
生を嫌ひ鳥獣の命を取事なし。其恩を報んとして此
所の狢の所為也とぞ。此坂俄に暗く成ける故八暮坂、
狢谷、越水称と今の世迄も唱へける。
東鑑に大庭三郎景親は石橋山の合戦の時、大将分の者
にて過言申せし者也とて、頼朝公平家追討の後治承四
年十月二十六日黄瀬川に於いて梟首せらるゝと見へた
り。
○林村 本多主税知行 鈴木隼人知行
高五百三拾弐石四斗八升九合 戸数九拾八戸余
鎮守 八幡宮の社
観音堂 [如意輪│三浦札所│
天台宗 林照寺]│羽黒派也│
黒石 是は網代道寸小壺住吉の城より退き、此所にて北
條家の軍勢を支へし所なりと北条五代記に見へた
り。
鬼士込 是は黒石の谷合なり。道寸の軍込居たる所也と
云。
狐塚 大池と云あり。是は鎌倉相模入道高時の時、乱波
風磨と云盗賊郡中に群集して諸堂宮室を放火し、或
は家々へ込入、財宝を奪ふ事有に依て里民恐れをな
す処、是に門塀揃たる一構の豪家あり。折節裏門開
て有ければ、盗賊等六七人来り内を伺ふ処、美女四
五人立出ける故、見付られしと彼盗賊門の木陰に隠
れんとす。女共早く見付、是は是は各方左様に御隠
れなさるゝは、我等を御嬲りに成ならん。今宵御出
はとく知り候故、酒肴も調へ御出を待居候。早く奥
へ御通りあれと女中共手を取、腰を押へて内へ誘引
ひけるにぞ。流石女には強気も出ず。言葉を和けて、
我等は左様に御待に成者に非ず。真平御免と振放し
遁んとすれ共合点せず。兼て主人の申付、仮令留守
へ御出有共御留め申御馳走申せとの事、主人は昨日
鎌倉へ参り、後は御内室先より各方の御出を御待あ
り。いざいざ座敷へ御通りあれと入替り立替り申け
れば、盗賊ども詮方なく誘引れて奥へ入見廻す処、
屋敷の奇麗なる事言語に及び難く、庭先の植込、泉
水築山等諸候方の御館と謂つべき有様也。夫御茶烟
草盆と持なし、其後膳部を持出て簾末ながら宜敷給
るべし取囃す。盗賊ども思ひ掛ざる事なれば、大に
悦び飽迄喰ひ、酒宴半なる所へ内室と覚しきもの打
かけ姿にて立出申けるは、兼て夫の申付にて候へば、
簾末ながら一献召上られ下さるべし。又御帰には重
くは候へ共、是を進上仕るべしと一間の襖を押開き
千両箱山の如くに積置て有ければ、盗賊の輩ぎょっ
として首を下て三拝す。彼内室威儀を改め、人の家
々に押入金銀財宝を奪ふも其身の乏敷故也。見らる
ゝ通り我家は先祖より金銀沢山に候えば、各方力一
はひ御持あれと申により、欲心深き盗賊ども力に任
て千両箱手に手に二つ三つ背負て、残は明晩迄御預
ヶ申と暇乞して立出ける。路次御用心のため提灯を
上ヶましょと云に、暗は拙者ども得手なりと山坂を
越し行処に、鎌倉より盗賊退治の役人大勢襲ひ来て、
悪党共一人も不残搦捕と下知をなす。其声に驚き周
章て遁んとして山路より転び落ち、下なる大池に溺
れて死たりける。翌日草刈の童池の辺へ参り是を見
けるに、盗賊大なる石を背負て死し居りければ、此
所の狐共悪党共を亡して里民を救ひける。
○大田和村 [有馬図書知行所]
高三拾八石二斗四升五合 戸数八十四戸余
鎮守 八幡宮の社
大田和三郎舘跡あり。今弥三郎山と云。
三浦平六兵衛義村の妾腹義継は久しく奥州に有りける
を、三浦一門滅亡の後、北條時宗此義継に大田和の郷
を賜り、此人より三浦大田和の家号を起す。三浦平六
と号し、其[子]義縁大田和平六と云。其子義勝大田
和平六左衛門と云。元弘三年新田義貞義兵を揚る時、
武蔵の国にて四郎左近太夫と戦ひ、敗北して堀金をさ
して引退く、義貞の軍兵則討れ詮方なく思れける処に、
三浦大田和平六左衛門義勝は義貞に志し有しかば、相
模国の勢六十余騎十五日の晩景に義貞の陣に馳せ参
る。義貞大に悦び急ぎ対面有て礼を厚くして席を近付
て意見を問ければ、平六左衛門畏て申けるは今天下二
ッに分れて互安否を合戦の勝に掛りたる事に候へば、
其雌雄十度も二十度もなどか付べき。但始終の落居は
天命帰する処にて候へば、一方の前をうけ玉はり、一
当あてて見候はんと申ければ、軍の成敗を三浦にぞ許
されける。
明れば五月十六日三浦四万余騎が真先に進んで分倍河
原へ押寄る。敵は前日の戦に労れ馬に鞍をも置ず、物
具も取調ず。或は遊君に枕を双て臥たる者も有り。酒
宴に酔を催されて前後も知らず寝たるも有りける処
へ、義貞三浦が先登に追かけて、十万騎を三手に分て
押寄せ、蜘手輪違十文字に攻立る。左近太夫大勢なり
と云へ共、三浦の一時の謀に破れて散々に敗北して鎌
倉を指て引退く。義勝鎌倉合戦に武功を顕すと云へ共、
其後後醍醐天皇さまで御賞翫なき故、恨み奉りて足利
尊氏を責て後降参して生捕れ、楠正成に預けられ、終
に誅せられ葬る。
│浄土宗 満宗寺 鎌倉光明寺末│
│日蓮宗 本住寺 大明寺末 │
│同宗 善應寺 同前
│
その2へつづく
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