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検証「源義経の鵯越の逆落とし」
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源平期の馬の実際
現在のテレビの歴史ドラマなどで使われている馬はサラブレッドやアングロアラブ種で
もちろん源平当時の馬とは違います、そこで源平当時の馬の実像について書いてみます。
現在の日本在来種は数も非常に少なくなっています、その在来種とは、
北海道和種 木曽馬 対馬馬 御崎馬 トカラ馬 宮古馬 与那国馬 野間馬
などを言います、そしてこれらの馬の祖先達が人間の祖先達と一緒に源平期を
戦ったのです、まず「平家物語」に出てくる馬の話しから・・・
そしてこのお話には私の先祖と巴御前の部屋の管理人さんのご先祖が出てきます
平家物語巻9の宇治川の先陣争い・・・
・・・・・佐々木四郎が賜はられたりける御馬は黒栗毛なる馬の、極めて太う
逞しきが、馬をも人をもあたりを払いて喰いければ「生食・・・いけずき」
と付けられたり、八寸「四尺八寸」の馬と聞こえし、梶原が賜はったる御馬も
極めて太う逞しきが、誠に黒かりしが「磨墨・・・するすみ」と付けられたり
いずれも劣らぬ名馬也・・・・・
この生食「もしくは生ロ妾あるいは池月とも」
そしてこの二頭の馬は源平当時ではもっとも大きい部類で
また、源義経の青海波が体高142センチ 和田義盛の白浪が144センチ
畠山重忠の秩父鹿毛が144センチで、ちなみに佐々木四郎高綱の
生食が145センチとこれらの馬が源平期を代表する巨大馬ではあったが
現在の馬の分類に当てはめてみると、体高148センチ以下は
ポニーという分類になるので、当時の武将はポニーに乗って戦っていたことになります。
ちなみに、サラブレッドは体高160センチから170センチぐらいで
体重も450キロから550キロぐらいあります、在来種の木曽馬が体重はだいたい
280キロで体高が134センチ前後です、そして馬の走るスピードはサラブレッドが
時速60キロちかくで、競走馬のトップクラスになると65キロ以上で走りますが
木曽馬は40キロほどです。そして、その当時の馬の姿を裏付けるものとして
新田義貞が鎌倉攻めをした前後の戦死者の人骨とともに軍馬の馬骨も
多く出土した鎌倉の材木座遺跡を東京大学人類学教室が調査して
保存の良好な四肢骨から当時の馬の体高を推定した結果109センチから140センチ
の間に分布しており、小型馬から中型馬に分かれていたことが分かっています。
そして日本における騎馬戦の実際について書きます。
日本の乗馬の風習は大体四世紀後半に伝来してきましたがそのころはまだ
馬上で激しい動きはできなくておもに儀式として乗られていました、
そして八世紀以降になると、騎馬に不慣れな民族なりに日本独自の馬具が
開発され、これにより本格的な騎馬戦が行われるようになりました。
平安時代には少数精鋭の騎馬武者が戦闘の主体になりました、平将門を
はじめ多くのもののふは弓や太刀で武装して馬上の郎党や徒歩の家来を
率いて一騎ごとに戦いました。そして源平期の騎馬戦は主に弓矢での戦いで
矢が尽きると太刀を使って戦いました。そして当時の軍装は大袖付大鎧で
機動性よりも防御に重点をおいて重厚な作りになっていました。
そしていよいよその当時の馬を頭において「義経の鵯越の逆落とし」について
検証します。「平家物語」や「義経記」によると義経は一万余騎を率いていましたが
自ら三千余騎を引き連れ、鵯越を一騎に逆落としに攻め平家軍をうち破ったことを
記しています。特に畠山重忠はこのような急峻な坂を我が馬に下らすのは
忍びないとして秩父鹿毛を自ら背負い斜面を駆け下ったとあります。
この鵯越の逆落としは範頼の本隊との攻撃の時期を合わせた連携作戦で
山の断崖からの騎馬部隊の出現という平家がたの意表を突いた奇襲攻撃でした。
この逆落としについてはいろんな説があって作り話だという説もありますが
馬にとっては人や、鹿が下れる程度の斜面であれば不可能ではありません、
しかし馬は重心が高いので急な登りの坂道は馬は頭を下げて体重を前足
にかけて後ろ足を外側に踏ん張ってからだを押し上げます、反対に
急な下りの坂道は頸をあげて前足を突っ張り後ろ足は折り曲げて、犬のお座りの
ような格好で滑り降ります。ですからこの鵯越も騎馬の武者が馬の口取りをして
引きずるような格好で斜面を下ったのではないかと思います。日本の在来種は
特に木曽馬や北海道和種や御崎馬は蒙古馬に近く本来草原ないし平地の生活に
適していますが、平地の少ない日本では古来より産地の傾斜地での生活を
強いられていたので意外に斜面は平気であっただろうと思われます。
現在でも御崎馬は傾斜度30度以上の斜面に放牧されていますし
対馬馬は体高は125センチと小さいですが頭が大きく前足に比べて後ろ足が短く
とくに後ろ足は飛節が曲がっていて蹄は小さくて固い、たてがみや尾も豊か。
対馬は傾斜地が多くて、隣の村に行くにも陸路は山越えをしなければなりません、
そして農耕馬として段々畑の耕作や椎茸の原木運びの祖業に使われていて
100キロ以上の荷を載せて30度を超える山道を楽々と上り下りします。
昔の在来馬はいずれも同じような山がちの土地で飼われていて、木曽馬や
平泉の奥州馬も同じような特徴を持っていたと思われます。
源義経は鵯越の作戦に馬を合わせたのではなくて、馬のこのような特徴を
熟知していてそのような馬をもっとも有効に使える作戦を馬に合わせて考えた
ことはあきらかです。また、この作戦について騎兵関係の専門家は
「急峻なる斜面の冒険突進のみが、騎兵の特性を表したものではなく、ここに
進出するまでの山地の機動迂回が騎兵の特性を発揮し、成功の基礎をなしたもの
・・・また「このときの義経軍の騎馬隊は200騎から300騎程度で、そして
鵯越を下って奇襲した兵力も自ら選抜した精鋭、30騎程度。」と現実に即した
推測をしています。
また、明治初年の地図で一ノ谷の断面を調べたところ鵯越えの逆落としは
傾斜度25度で、もっとも傾斜のきつい一ノ谷城の下側「前側」が27度であるから
この程度の坂なら現在の在来馬でも十分に下りられます。
また源平の水馬戦についてですが「平家物語」には水馬戦の様子を「橋合戦」や
「宇治川の戦い」などで実際の武者が馬の背に乗って渡河しているものとしているが
河の水量が多く、または海での戦いで馬の足が川底に着かない場合
重装備の鎧武者を乗せて急流を渡りきるのは非常に難しいものと思われます、
また渡河中に、馬に乗っていれば馬の泳ぎを遅らせ、騎馬武者は弓矢の
格好の標的になるわけですから現実的ではありません。
ですからむしろ、馬の足の立たないとかの場合は武者は馬から降りて
泳いだり、あるいは馬の鞍などにつかまり馬とともに泳いだと思われます。
もちろん現在のサラブレッドでも怪我のリハビリのために水泳を取り入れたり
しているぐらいですから、馬もかなり泳ぎは上手なものです。
最後に有名な武将の愛馬の名前を書きます。
源義経 青海波 太夫黒 薄墨 他
源範頼 一霞 月輪
和田義盛 白浪
佐々木高綱 生食「生ロ妾 池月」
北条時政 荒磯
畠山重忠 大里人 高山
渋野重国 獅子丸
平山李重 目槽馬
熊谷直実 權太
那須与一 鵜黒
梶原景李 磨墨
上総介綱胤 薄桜
片岡為春 白山
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