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落人伝説の村「東祖谷」
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寿永4年(1185)2月19日、平氏一族は讃岐屋島の戦いで源義経軍に敗れて、生き残った武士たちは散りじりに逃げて行きました
祖谷地方に伝わる伝説によると、平教盛の次男 平国盛は、安徳天皇を奉じ、手勢百余騎を率いて陸路東に逃れ、水主村(現香川県大内町)にしばらく潜んだ後、「徳島県三好郡の井川町とも・・・」大山(阿讃山脈)を越えて吉野川をさかのぼって、寒峰をよじのぼって山深い祖谷山の地に入りました。「現徳島県三好郡」
剣山の麓、大枝の岩窟にたどりついたのは大晦日の夜でした。
形ばかりでも門松を立てようと松の木を探しましたが、付近にはブナやケヤキばかりで、仕方なく桧の枝を門松にしたてて新年を迎えたとあります。
翌朝、国盛らは、大枝の名主の屋敷を襲って立てこもって、付近の住民を帰服させながら勢力を伸ばしていきました。
国盛は後に住居を阿佐名に移し、承元2年(1208)、祖谷山に入山して20年余の後、この地で息を引き取りました。
それから後も国盛の子孫は代々この地に住んで阿佐を姓をするようになるのです。
国盛の直系の子孫であると伝えられる「阿佐家」には、現在も「平家の赤旗」と呼ばれる大小二流の旗と系図、宝刀が所蔵され、今でも新年には桧の小枝を神棚に祀るといいます。
また、平家の武士たちが最初にたどりついた岩窟も「平家の岩窟」と呼ばれて現在も残っている大枝にある鉾神社は、国盛が鉾を納めて社を建てたものと伝えられ、境内に国盛が植えたとされる杉は「国盛杉」と呼ばれ800年余を経て今では県下一の巨木となっています「高知県には大杉神社というのがあって、そこの杉は樹齢3000年だそうです。」
一方、安徳天皇は、祖谷山に入った翌年の文治2年(1186)には病気のために崩御され、栗枝渡で火葬にされて「栗枝渡八幡神社」に祀られました「屋島にも安徳天皇を祀った神社やお墓があります」。
社殿の傍らにある「御火葬場」は聖域とされ、周囲二間四方はどんな大雪が降っても雪が降り積もらず、また、そこへ入ると腹痛がおこるといって村の人は今も近寄らないといいます。
東祖谷山村には、この他にも平家や安徳天皇にまつわる数々の遺跡や伝説が残されています。
剣山は、かつて石立山と呼ばれており、安徳天皇が平家復興を祈願して剣を奉納されたことで、「剣山」と改称され、また安徳天皇一行が川を渡る際に栗の木を渡して通った場所の地名も「栗枝渡」と改められました。
この他にも、天皇が装束を掛けられた「装束石」、鉾を立てかけられた「鉾立て石」などがあります。
剣山の山頂付近のなだらかな草原は「平家の馬場」と呼ばれ、平家の武士たちが厳しい生活のかたわら軍馬の調練に励んだと伝えられています。
四国で2番目の高山である剣山の頂上(太郎山、次郎山)には、はるかかなたに広がるなだらかな草原があります。(9月初めには、りんどうが太陽の光を気持ちよさそうに浴びあたり一面に花を開かせています。)祖谷には平坦で広い場所がないため、平家の落人たちは平家の再興を願って、馬の訓練をこの場所で熱心に行っていたと伝えられています。おだやかなこの草原で800年前に源氏との戦いにそなえた訓練をしていたと思うと、今にでも山陰から馬の足音が聞こえてきそうになります。雲の上での戦闘訓練........、幻想的に感じます。
太郎山 平家の馬場 次郎山
鉾杉 (県の天然記念物に指定)
鉾杉は、鉾神社の社業の中に杉の木が生い茂っている中でも最も大きく、力強く、そして美しく、天を貫く勢いでそびえ立っていました。根本の部分は根がしっかりと地につき生命力の強さを感じます。
平 国盛は、祖谷の地に永住しようとは考えていませんでした。この地を離れた後、再び山を下り京に攻めのぼる計画でした。離れた後はもう二度とこの地を訪れることがないと考え自分達が祖谷にいたというあかしを残そうと、木が成長するように、平氏の勢力が大きく育つよう祈り、私がいなくなっても、永遠に成長を続け、やがて大樹となり、そして人々はその木を見るたびに平氏の隆盛を思うだろう。と杉の木を選んだそうです。
そして、見晴らしのいい、大枝名の聖地を選び植樹をしたと言伝えられています。
また、この杉の下には平 国盛が持っていた「平家守護神の鉾」が埋められているとも伝えられています。
この杉は、平 国盛の志と歴史の重みを深く感じさせられます。
樹齢 約800年
周囲 約11m
高さ 約35m
木の広がり(横) 約25.5m
刀掛けの松 (東祖谷村村指定の文化財(史跡))
平家の馬場(剣山の頂上)へ行く途中に「刀掛けの松」という松の木があります。戦後(第二次世界大戦)の台風で倒れ朽ちていますが、この松の木には安徳天皇の細心で心暖まる話が伝えられています。
安徳天皇は、平家の「草薙の剣」を剣山の頂上にある高くそびえる大岩に納め、平家一同の盛隆を祈願されたそうです。その剣山登頂途中の休息時に「草薙の剣」を持った従者に目をとめ、顔中に汗が流れているにもかかわらず、拭うこともせず威儀を正している姿をみて強く心を打たれ、剣を置いて汗を拭くよう声をかけられたそうです。が、従者はとまどいためらいました。安徳天皇は、再び剣を縁起のいい松の木に掛けて汗を拭うようにと言葉をかけたそうです。それ以来平家の落人たちは、訓練でここを訪れるたびに「刀掛けの松」と呼び、枯れ果てた姿の今でも伝説として残されています。
安徳天皇御火葬場 (東祖谷山村 有形文化財指定)
安徳天皇は祖谷にたどりついた後、京上という地に御所を完成させたが、それも束の間でその年の台風に根こそぎ流されてしまいました。悲運の安徳天皇は「朕の行くところは、蛙の声のするところである。」と言い、平 国盛は、その地にふさわしい、秋だというのに蛙の声が聞こえる場所をさがしあて、そこに新御所を建立しました。その地が今の栗枝渡(地名)になります。安徳天皇はこの地を大変気に入り、よく外に出かけ散歩をしたそうです。しかし、平穏な日々は長く続くことがなく、病に犯されこの地で亡くなりました(9歳)。側近で安徳天皇を護りつづけてきた人々は生前に楽しく遊ばれたこの地で遺体を火葬によって清め奉ったそうです。
とても静かな樹木の茂る森の入り口に栗枝渡八幡神社があります。その拝殿の右奥に石が積み重ねられた上に小さな『ほこら』にしめ縄が張りめぐらされていました。そこが安徳天皇のご火葬場と言われています。ここは、誰も足を踏みいれてはいけないと昔から言い伝えられており、また、どんなにたくさんの雪が降っても積もらないそうです。まさしく聖地を感じます。
阿佐家(平家屋敷) (東祖谷村 有形文化財)
安徳天皇の崩御後、平 国盛は、源氏が攻めにくく、守りやすい自然の条件が揃ったこの地を選び余生を過ごしました。家屋の東、北は非常に険しい山。南側は急斜面、西側は、谷という地形は、最も隠れ里に適した場所です。
今の屋敷は約150年前に火災にあい建て替えをしています。以前の建物については、詳しいことが残されていません。
この屋敷には平家の象徴である「平家の赤旗」二旗が保存されています。
大旗(本陣用)
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大きさ |
縦 3.03メートル
横 1.11メートル |
色
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赤と紫が交互に染められていた。
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文字
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上部 八幡大菩薩(墨書)←弘法大使が鳩文字で書いていると伝えられています。
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ところどころに弓矢があたった穴があいている。
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小旗(戦陣用)
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大きさ |
縦 1.99メートル
横 0.52メートル |
色
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赤色で染められていた。
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文字
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上部 八幡大菩薩(墨書)←嵯峨天皇が書いたもの伝えられています。
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ところどころにポツポツと血の後が残っています。
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天正13年に徳島の蜂須賀家政は、旗が武器の種類になるとし、反乱を恐れ、表装し、軸物で保存するよう命令をだし、現在では掛軸として保存されています。
本物の赤旗は、一般には公開をしていないようです。複製が、東祖谷民族資料館に展示されています。
奥祖谷二重かずら橋
約800年前に讃岐志度の浦の戦いに敗れた平家一族が、剣山、平家の馬場での訓練に通うため架設されたと言われています。
そのためいつでも切り落とせるようにと、シラクチカズラで作られているとか・・・
2つの橋は女橋、男橋と称され、その横には人力で渓谷を渡る「野猿(やえん)」と言う、人力ロープウェーもはり、他では体験できない遊びとして人気です。
またそのほかにも西祖谷にも平家屋敷などがあります。
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