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『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十九
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屋卷 第二十九
S2901 般若野軍事
五月九日卯刻に、源氏六千餘騎、白旗三十流指上て、喚叫で般若野に推寄たり。平家も時を合て散々に戦ふ。二百騎三百騎五十騎百騎、出し替入違て、寄つ返つ切つ切れつ、息をも継せず馬をも不(レ)休、未刻まで戦たり。夕に及で平家禦兼て引退。源氏勝に乗て追懸たり。平家は礪並郡、小矢部の河原まで、返合々々散々に戦けるが、落ぬ討れぬ二千餘騎は失にけり。残三千餘騎、夜に入て礪並山、倶梨伽羅が峯を引越て、加賀国へぞ帰りにける。
S2902 平家礪並志雄二手事
平家一所に集て、木曾追討の為に、十萬餘騎を二手に分て、越中国に入て国中の兵を責随へんと評定す。搦手の大将軍には越前三位通盛、三河守知度、侍には越中前司盛俊、(有朋下P108)上総守忠清、飛騨守景家、三萬餘騎を相具して、志雄山へこそ向ひけれ。彼山は能登加賀越中三箇国の境也。能登路白生を打過て、日角、見室尾、青崎、大野、徳蔵宮腰までぞつゞきたり。追手の大将軍には三位中将維盛、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍には上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、越中権頭範高が一黨五千餘騎を先として、都合七萬餘騎は、加賀と越中の境なる倶梨伽羅山へぞ向ひける。加賀国、井家津、播多、荒井、閑野、竹橋、大庭、崎田、森本まで連たり。
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追手搦手十萬餘騎、赤旗赤じるし塩風に吹れて、浦々は錦を曝し、緑の梢を隠して、山々は紅を染成せり。平家既に倶梨伽羅、志雄山、二手に分て下と聞えければ、木曾は越後国府を立て越中に入、国々軍兵馳集て木曾に加る。越前には、本庄、樋口、斎藤が一族、加賀国には、林、富樫、井家津、播多、能登国には、土田、関、日置、越中国には、野尻、河上、石黒、宮崎等参けり。
S2903 三箇馬場願書事
木曾は六動寺の国府に著、兵具くらべ勢汰して著到あり。其勢五萬餘騎とぞ注しける。木曾(有朋下P109)は物書に、大夫房覚明を招て軍兵の中にして云、軍は謀と云ながら、平家は聞體大勢也、佛神の擁護に非んば輙く靡し難し、幸に今北国第一の霊峰、効験無雙の明神の御麓近く参たり、白山妙理権現に願書を進せばやと有ければ、軍兵も覚明も、然るべしとて、覚明は箭立取出て旨趣を顕す。其状に云、敬白、
立(二)申大願(一)事
一 可(レ)奉(二)勤仕(一)加賀馬場白山本宮三十講頭事
一 可(レ)奉(二)勤仕(一)越前馬場平泉寺 三十講頭事
一 可(レ)奉(二)勤仕(一)美濃馬場長龍寺 三十講頭事
右白山妙理権現者、観音薩■[*土+垂](さつた)之垂跡、自在吉祥之化現也、卜(二)三州高岩之霊窟(一)利(二)四海卒土之尊卑(一)、参詣合掌之輩、満(二)二世之悉地(一)、帰依低頭之類、誇(二)一生之栄耀(一)、惣鎮護国家之寶社、天下無雙
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之霊神者歟、而自(二)近年(一)以降、平家忽昇(二)不当之高位(一)、飽誇(二)非順之榮爵(一)、忝蔑(二)如十善萬乗之聖主(一)、恣陵(二)辱三台九棘之臣下(一)、或追(二)捕太上法皇之陬(一)、或押(二)取博陸殿下之身(一)、或打(二)圍親王之仙居(一)、或奪(二)取諸宮之権勢(一)、五畿七道何處不(有朋下P110)(レ)愁(レ)之、百官萬民誰人不(レ)歎(レ)之、已欲(レ)断(二)王孫(一)、豈非(二)朝家怨敵(一)哉、是一、次焼(二)南京七寺之佛閣(一)、断(二)東漸八宗之惠命(一)、盡(二)園城三井之法水(一)、滅(二)智證一門之学侶(一)、其逆勝(二)調達(一)、其過越(二)波旬(一)、月氏之大天再誕歟、日域守屋重来歟、已魔(二)滅佛像経卷(一)、忽焼(二)拂堂舎僧坊(一)、寧非(二)法家之怨敵(一)哉、是二、次源氏平氏之両家、自(レ)昔至(二)于今(一)、如(二)牛角(一)、天子左右之守護、朝家前後之将軍也、而触(レ)事決(二)雌雄(一)、伺(レ)隙致(二)鉾楯(一)、仍代々企(二)合戦(一)、度々諍(二)勝負(一)、既有(二)宿世之怨心(一)、是非(二)当時之大敵(一)歟、是三、因(レ)茲忝蒙(二)神明神道之冥助(一)、為(レ)降(二)佛法王法之怨敵(一)、立(二)大願(一)、於(二)三州之馬場(一)、仰(二)感應於三所権現(一)耳、就(レ)中先代伏(二)王敵(一)、皆由(二)佛神之贔屓(一)、此時降(二)謀叛(一)、寧無(二)権現之勝利(一)哉、加(レ)之白山之本地観音大士、於(二)怖畏急難之中(一)、能施(二)無畏(一)、縱雖(二)平家之軍兵如(レ)雲集如(レ)霞下(一)、衆怨悉退散之金言有(レ)憑、縱雖(下)謀臣之凶徒、加(二)咒咀(一)致(中)怨念(上)、還著於本人之誓約無(レ)疑、然者還念(二)権現本誓(一)、感應不(レ)可(レ)廻(レ)踵、何況武家自(二)先祖(一)、仰(二)八幡大菩薩之加護(一)、振(レ)威施(レ)徳、而八幡之本地者、観音本師阿彌陀也、白山御體者、彌陀、脇士観世音也、師弟合(レ)力、感應潜通者歟、況彌陀有(二)無量壽之號(一)、不(レ)授(二)千秋萬歳之算(一)哉、観音現(二)薬樹王之身(一)、寧不(レ)含(二)不老不死之薬(一)乎、云(二)本地(一)云(二)垂跡(一)、勝利掲焉、
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付(二)公家(一)付(二)私宅(一)、(有朋下P111)欲(レ)遂(二)素懐(一)、所(レ)志無(レ)私、奉公在頂、偏為(レ)降(二)王敵(一)、専為(レ)接(二)天下(一)、忽為(レ)興(二)佛法(一)、鎮為(レ)仰(二)神明(一)也、傳聞天神無(レ)怒、但嫌(二)不善(一)、地祇無(レ)崇、但厭(二)過患(一)、所以平家奪(二)王位(一)、是不善之至哉、謀臣滅(二)佛法(一)、忽過患之甚也、日月未(レ)堕(レ)地、星宿猶懸(レ)天、神明為(二)神明(一)者、此境施(レ)験、三寶為(二)三寶(一)者、此刻振(レ)威、然則権現照(二)我等之懇誠(一)、宜(レ)令(レ)罰(二)平家之逆族(一)、我等蒙(二)権現之加力(一)、願欲(レ)打(二)謀叛之輩(一)、若酬(二)丹祈(一)、感應速通者、上件大願無(二)懈怠(一)、可(二)果遂(一)也、者彌施(二)源家之面目(一)、新副(二)社壇之荘厳(一)、鎮誇(二)神道之冥加(一)、倍致(二)佛法之興隆(一)矣、仍所(二)立申(一)如(レ)件。
壽永二年五月九日 源義仲敬白
と書て、木曾が前にて讀上たりければ、武士各感涙を流しけり。
抑白山妙理権現と申は、昔越前国麻生津に、三神の安角が二男、越大徳神融禅師と云人まし/\き。久修練行年積、難行精進日地に新也き。元生天皇御宇、養老元年に、和尚当国大野郡伊野原に遊止し給ひたりけるに、一人の貴女化現して云、日本秋津島は本是神国也。我天神最初の国常立尊より跡を降してこのかた、百七十九萬二千四百七十六歳、上上皇を護(有朋下P112)下下民を撫、吾本地の眞身は在(二)山頂(一)、往て可(レ)禮と云て、化女即隠れ給ぬ。和尚霊感を仰て白山の絶頂に攀登、緑の池の邊に居て、三密印観を凝し、五相身心を調て、祈念加持し給ひければ、池中より九頭竜の大蛇身を現ぜり。
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和尚責て云、此は是方便示現の形、全本地の眞身にあらじとて、咒遍功を増ければ、十一面観音自在尊、慈悲の玉體顕給へり。妙相遮眼光明身を耀せり。和尚悲喜胸に満て感涙面を洗ふ。帰命頂禮し奉て云、願は大聖本地垂跡、哀を垂て、像末の衆生を抜済利益し給へと被(レ)申ければ、爾時に観世音、金冠を動し慈眼を瞬し給て、妙體速に隠れ給ふ。又和尚左の峯に登給へば、一宰官人にあへり。手に金の箭を把り肩に銀の弓を懸たり。咲を含て語て云、我は是妙理大菩薩の神務輔佐の貫首、名をば小白山、別山大行事と云。大徳当(レ)知、聖観世音の化身也と云て隠れぬ。又和尚右の嶺に登給へば、一の老翁有。語て云、我は是妙理大菩薩の神務、靜謐啓■(けいいつ)輔弼也、名をば太已貴と云。蓋又西刹の教主、阿彌陀也と云て隠れ給ひぬ。是を白山三所権現と申也。峻嶺高々として、■利(たうり)の雲も手に取べし、幽谷深々として風際の底も足に蹈つべし。効験一天に聞え利益四海に普し。されば木曾義仲も、眼を塞で白山を禮拝し、掌を合権現に奉(レ)帰、敬先致(二)祈誓(一)けり。(有朋下P113)
S2904 倶梨迦羅山事
木曾は六動寺の国府より打上て、般若野御河端へ著にけり。是にて軍の談議あり。平家は大勢と聞、御方は無勢也、彼礪並山を越れて、松永邊、柳原、小矢部の河原へ打出なば、馳合の軍なるべし、馳合の戦の習は、必勢による事なればゆゝしき大事也、されば先、義仲倶梨伽羅山の北の麓に陣をとらんと思ふ、其故は、源氏礪並郡倶梨伽羅山の麓に陣を取ならば、平家はあは敵向たりとて、山の峠去馬場の邊に引へんずらん、其時義仲搦手へ廻澄して、追手搦手北南より押合て、平家を倶梨伽羅南谷
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へ攻落さんと思ふ也、去ば急馳向て陣を取んとて、信濃国住人星名黨を指遣す。巳時ばかりに礪並山の北の麓に著て、日宮林に旗三十流打たてたり。倶梨伽羅山と云は加賀と越中との境也。嶺に一宇の伽藍あり。昔越大徳諸国修行し給ひしに、倶梨伽羅明王の行給ひたりしかば、其よりして此山を倶梨伽羅嶽共申とか。越中国礪並郡の内なれば、礪並共申めり。谷深して山高、嶮難にして道細し、馬も人も行違ふ事不(レ)輙。(有朋下P114)
S2905 源氏軍配分事
五月十一日に、平家十萬餘騎を二手に分て、礪並、志雄二の道より越中国へ打入と聞えければ、木曾乳母子の今井四郎を召て、義仲、信濃国横田河原の軍には、三千餘騎にて四萬餘騎をも追落き、是は敵十萬餘騎、御方五萬餘騎、一人して敵二人に向、彼等は馳疲たる京家西国の駈武者也、是は在国案内の荒手也、思へば安平也、吉例に任て初は七手に分て、後は一に寄合て、揉に揉て南の谷に追落べしとて、方々手をぞわかちける。
一手は十郎蔵人行家、足利矢田判官代義兼、楯六郎親忠、宇野弥平四郎行平、成合、落合を始として、可(レ)然者共一萬餘騎、志雄山の搦手へ差遣す。
一手は根井小弥太を大将として、二千餘騎、越中国住人、蟹谷二郎を案内者に付られて、鷲島を打廻、松永の西のはづれ、小耳入を透て鷲尾へ打上り、彌勒山を引廻す。
一手は今井四郎兼平大将として二千餘騎、越中国住人石黒太郎光弘、高楯二郎光延、案内者に打
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具して、松永の日宮林へ差遣す。
一手は樋口次郎兼光を大将にて三千餘騎、加賀国住人、林、富樫を打具して、笠野冨田を打廻、竹橋の搦手にこそ向ひけれ。
一手は信濃国住人、余田次郎、圓子小中太、(有朋下P115)諏訪三郎、小林次郎、小室太郎忠兼、同小太郎眞光の大将にて三千餘騎、越中国住人、宮崎太郎、向田荒次郎兄弟二人を案内者にて、安楽寺を通り、金峯坂を打上り、北黒坂を引廻し、倶梨伽羅の峠の西のはづれ、葎原へ差遣す。
一手は巴女を大将にて一千餘騎、越中国住人、水巻四郎、同小太郎を案内者にて、鷲嶽下へ差向けり。此巴と云女は、木曾中三権頭が娘也。心も剛に力も強、弓矢取ても、打物取てもすくやかなり。荒馬乗の上手、去し養和元年、信濃国横田の軍にも向ふ。敵七騎討捕て、高名したりければ、何くへも召具して、一方の大将には遣しけり。
一手は木曾、三萬餘騎にて小矢部河を打渡し、垣生庄に陣を取。勢のかさを見んとて、胡頽子木原、柳原に引隠す。平家は礪並山、倶梨伽羅が峯を打越て、坂を下に東へ歩せつゝ、遙に麓を見渡せば、日宮林に白旗四五十流打立たり。あはや源氏は寄せたるは、此山四方岩石也。敵左右なくよも寄じ、能登路志雄山をば指固ぬ。西は御方の勢也。東は口一方の所也。高嶮して道狭ければ、源氏に矢種を射盡させよとて、倶梨伽羅の堂、国見猿馬場の塔橋の邊に引へて、赤旗山々岡々に立並たれば、龍田山
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の秋の暮、時雨に染たる紅葉葉も、角やと覚て面白や。源氏の謀にも少も不(レ)違、平家引へて左右なくよせず。源平陣を合て二町には過ず。(有朋下P116)
S2906 新八幡願書事
木曾は軍をば不(レ)急けり。先四方を屹と見渡ば、北山のはづれに当て、夏山の緑の木間より、緋玉墻風の見えて、片割造の社壇あり。山林高聳て、鳥居久苔むせり。木曾当国住人池田次郎忠康を召て、彼は何宮と申ぞ、又如何なる神を奉(レ)祝たるぞと尋給へば、答て申、八幡大菩薩を祝進せて侍るが、垣生庄にましませば、垣生新八幡と申候と云。木曾大に悦て、手書に大夫房覚明を召れたり。此僧は本は勧学院の文章博士、進士蔵人通廣と云ける者也。出家して西乗坊信救と名をつきて、南都に便宜の物書して居たりける程に、高倉宮御謀叛の時、三井寺より南都へ牒状を越して、同心與力して宮をも奉(レ)助、佛法の破滅をも見継べしと申たりけるに、返牒を此信救に誂。本より家の能なれば、種々に是を書ける内に、太政入道浄海は、平家之糟糠、武家之塵芥と書たりけるを、入道安からぬ事に思て、其信救め、いかにもして打殺せよとて、内々伺ければ、南都に安堵し難して、漆を湯に沸して身に沐、■脹(はうてう)して如(二)癩人(一)成て南都を迷出、人是を不(レ)知。命の惜さに離難き都を徐に見て、東国へ落下ける程に、十郎蔵人行家、平家追討の為に、東国よ(有朋下P117)り都へ責上て、墨俣河にて平家に被(二)打落(一)て、三河の国府に御座ける所に行合て、行家を憑てしか/゛\と云ければ、不便也とて湯あびせ労りなどしければ、誠の癩病ならねば、■脹(はうちやう)次第に直、本の信救になる。行家参河の国府より伊勢太神宮へ進ける祭文も、此信救ぞ書ける。行家兵衛佐に中
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違て信濃へ越ける時、又木曾に思付にけり。木曾信救を改て古山法師に造成て、木曾大夫坊覚明と呼。白山三箇之馬場願書をも此覚明書たり。筆に得(二)於自在(一)詞に兼(二)於徳(一)たれば、木曾云けるは、やゝ大夫殿、幸に当国新八幡宮御寶前に近づき奉て合戦を遂んとす、今度の軍勝ん事疑なし、但且は後代の為、且は当時の祈に、願書一紙、社殿に進せばやと存ず、其相計ひ給へと云。覚明馬より下、木曾が前に跪て、箙の中より矢立取出し、墨和(レ)筆染(二)畳紙(一)、押開て古物を寫が如、案にも及ばず書(レ)之。其状云、
帰命頂禮、八幡大菩薩、日域朝廷之本主、累世明君之嚢祚、為(レ)守(二)寶祚(一)為(レ)利(二)蒼生(一)、改(二)三身之金容(一)、開(二)三所之権扉(一)、爰項年之間、有(二)平相国(一)、恣管(二)領四海(一)、悩(二)乱萬民、猥蔑(二)萬乗(一)、焚(二)焼諸寺(一)、已是佛法之讎(あだ)、王法之敵也、義仲苟生(二)弓馬之家(一)、僅継(二)箕裘之塵(一)、見(二)聞彼暴悪(一)、不(レ)能(レ)顧(二)思慮(一)、任(二)運於天道(一)、投(二)身於国家(一)、試起(二)義兵(一)、(有朋下P118)欲(レ)退(二)凶器(一)、闘戦雖(レ)合(二)両家之陣(一)、士卒未(レ)得(二)一塵之勇(一)之處、今於(二)一陣(一)上(二)旌之戦場(一)、忽拝(二)三所和光之社壇(一)、機感之純熟已明、兇徒之誅戮無(レ)疑矣、降(二)歓喜之涙(一)、銘(二)渇仰於肝(一)、就(レ)中曽祖父前陸奥守義家朝臣、寄(二)附身宗■(そうべう)氏族(一)、自(レ)號(二)名於八幡太郎(一)以降、為(二)其門葉(一)者無(レ)不(二)帰敬(一)矣、義仲為(二)其後胤(一)、傾(レ)頭年久、今起(二)此大功(一)、喩如(下)嬰兒以(レ)■(はまぐりをもつて)量(二)巨海(一)、蟷螂取(レ)斧向(中)奔車(上)、然間為(レ)君為(レ)国起(レ)之、為(レ)身為(レ)私不(レ)起(レ)志之至、神鑒在(レ)暗、憑哉、悦哉、伏願冥慮加(レ)威霊神合(レ)力、勝決(二)一時(一)、怨退(二)四方(一)、
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然則丹祈相(二)叶冥慮(一)、幽賢可(レ)成(二)加護(一)者、先令(レ)見(二)一之瑞相(一)給、仍祈誓如(レ)件。
壽永二年五月十一日 源義仲敬白
とぞ書たりける。覚明其日の装束には、褐衫の鎧直垂に、首丁頭巾して、■(ふし)縄目の冑に、黒つ羽の征矢負て、三尺一寸の赤銅造の太刀帯、塗籠籐の弓脇に挟で、左の手に捧(二)願書(一)、右の手に筆を持てぞ居たりける。哀文武道の達者哉とぞ見えたりける。此願書と十三の表矢とを抜て、折節雨降ければ、蓑著たる男に蓑の下に隠し持せて、忍やかに大菩薩の社壇へ進る。憑哉八幡三所、誠の志の深を御納受ありけるにや、白鳩空より飛来て、白旗の上に翩翻す。木曾馬より覆下て、甲を脱ぎ、首を地に著て是を拝奉る。大将軍(有朋下P119)角しければ、兵皆下馬して同く拝(レ)之。平家の先陣もはるかに是を見て、身の毛竪てぞ覚ける。
S2907 砥並山合戦事
木曾は礪並山黒坂の北の麓、垣生社八幡林より、松永、柳原を後にして、黒坂口に南に向て陣を取。平家は倶梨伽羅が峠、猿の馬場、塔の橋より始て、是も黒坂口に進み下て、北に向て陣を取。両陣相隔事五六段には不(レ)過、互に楯を突向へたり。木曾は勢を待得ても合戦をば不(レ)急、平家の方よりも源氏の様を守て進み戦事なし。時の声三箇度合て後は、両陣靜返てぞありける。良暫有て、源氏の陣より精兵十五騎を楯の面に出して、十五の表矢の鏑を同音に射さすれば、平家も十五騎を出合て、是も十五の鏑を射返す。互に勝負せんと進みけれ共、陣より制して招ければ、源氏は楯の内に入。源氏入れば平家
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も同入にけり。とばかり有て、二十騎出して射さすれば、又二十騎を出合てあひしらふ。三十騎五十騎出合々々射けれ共、互に勝負はなし。角操日を晩して、夜に入、後の山より搦手を待て、追手搦手押寄て、南の谷へ追落さんと計けり。平家是をば不(レ)知して、あひし(有朋下P120)らふこそ無慙なれ。五月十一日の夜半にも成にけり。五月の空の癖なれば、月朧に照す月影、夏山の木下暗き細道に、源平互に見え分ず。平家は夜討もこそあれ、打解寝べからずと催けれ共、下疲たる武者なれば、冑の袖を片敷、甲の鉢を枕とせり。源氏は追手搦手様々用意したりける中に、樋口次郎兼光は搦手に廻たりけるが、三千餘騎、其中に、太鼓、法螺貝、千ばかりこそ籠たりけれ。木曾は、追手に寄けるが、牛四五百疋取集て、角に続松結付て、夜の深るをぞ相待ける。去程に樋口次郎、林富樫を打具して中山を打上、葎原へ押寄せたり。根井小弥太二千餘騎、今井四郎二千餘騎、小室太郎三千餘騎、巴女一千餘騎、五手が一手に寄合せ、一萬餘騎、北黒坂南黒坂引廻し、時を作、太鼓を打、法螺を吹、木本萱本を打はためき、蟇目鏑を射上てとゞめき懸たれば、山彦答て幾千萬の勢共覚えざりけるに、木曾すはや搦手は廻しける、時を合せよとて、四五百頭の牛の角に松明を燃して平家の陣に追入つゝ、胡頽子木原、柳原、上野邊に引へたる軍兵三萬餘騎、時の声を合をめき叫、黒坂表へ押寄る。前後四萬餘騎が時の声、山も崩岩も摧らんと夥し。道は狭し山は高し、我先々々と進む兵は多し、馬には人人には馬共に厭に押れて、矢をはげ弓を引に及ばず、打物は鞘はづし兼たり。追手は搦手に押合せんと責上。搦手は追手(有朋下P121)と一にならんとをめき
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叫ぶ。平家は両方の中に被(二)取籠(一)たり。軍は明日ぞあらんずらんと取延て思ひける上、如法夜半の事なるに、俄に時を造懸たれば、こは如何せんと、東西を失ひ周章騒、弓取者は矢をとらず、矢をば負共弓を忘、冑を著て甲をきず、太刀一には二人三人取付、弓一張には四五人つかみ付けり。馬には逆に乗て、後へあがかせ、或は長刀を逆に突て、自足を突切て立あがらざる者も有ければ、蹈殺され蹴殺さるゝ類多し。主の馬を取ては主を忘れ、親の物具を著ては親を顧ず、唯我先々々にと諍へ共、西は搦手也、東は追手也、北は岩石高して上るべき様なし。南は深き谷也、下すべき便なし。暗さはくらし案内は不(レ)知、如何すべきかと方角を失へり。此山は左右は極て悪所也、後は加賀御方也、三方は心安思つるに、後陣より敵のよせける危しさよと思ひければ、只云事とては、打破て加賀国へ引や者共々々と呼けれ共、搦手雲霞の如くなり、追手上が上に責重ければ、先陣後陣に押あまされて、道より南の谷へ下る。爰に不思議ぞ有ける。白装束したる人三十騎ばかり、南黒坂の谷へ向て、落せ、殿原あやまちすな/\とて、深谷へこそ打入けれ。平家是を見て五百餘騎連て落したりければ、後陣の大勢是を見て、落足がよければこそ先陣も引返ざるらめとて、不(レ)劣々々と、父落せば子も落す、主落せ(有朋下P122)挿絵(有朋下P123)挿絵(有朋下P124)ば郎等も落す。馬には人々には馬、上が上に馳重て、平家一萬八千餘騎、十餘丈の倶梨伽羅が谷をぞ馳埋ける。適谷を遁者は、兵杖を不(レ)免、兵杖を遁る者は、皆深谷へこそ落入けれ。前に落す者は、今落す者に蹈殺され、今落す者は後に落す者に被(二)押殺(一)。加様にしては死けれ共、大勢の傾立ぬる習にて、敵と組で死んと云者
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は一人もなし。
去程に夜明日出る程に成にけり。参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、西の山の麓を北に向て、五十餘騎を相具して、声をあげ、鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、餘すな者共とて、紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。其體等倫に異也。二百餘騎を率して、北の山の上より落し合て押圍み、取籠て戦けり。知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十餘騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんと(有朋下P125)す。親義が郎等三十餘騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。爰にてぞ源平両氏の兵、数を盡て討れにけり。知度朝臣は難(レ)遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり。伊勢国住人、舘太郎貞康、八十餘騎にて扣たり。貞康が叔父小坂三郎宗綱と云者あり、名を得たる兵也。貞康に申けるは、前陣は已に敗れ、後陣は又圍れぬ。宗綱齢已に七旬、命旦暮にあり、戦て死るP0707
は兵の法也と云ければ、貞康答けるは、今度の合戦、官軍は十萬餘騎逆徒は五萬騎、而に軍を敗れて、生て帰て、面を人に守られん事、恥の中の辱也、今示給趣日来の本意也とて、三箇度時を作て、伊勢国住人舘太郎貞康と名乗、敵の中に懸入、宗綱を始として八十餘騎の輩、懸並べ/\組で落指違てぞ死にける。貞康は大見七郎光能に組で互に討れにけり。八十餘人の輩、敵を得ぬはなかりけり。源氏の兵、貞康が黨にぞ多く討れにける。抑倶梨伽羅が谷と云は、黒坂山の峠、猿の馬場の東にあり。其谷の中心に十餘丈の岩瀧あり、千歳が瀧と云。彼瀧の左右の岸より、杼の木多く生たり。谷深して梢高し。其木半過る程こそ、馳埋たれ。澗河血を流し死骸岡をなせり。無慚と云も愚也。されば彼谷の邊には、矢尻(有朋下P126)古刀、甲の鉢鎧の實、岸の傍木の本に残、枯骨谷に充満て今の世までも有と聞。さてこそ異名には地獄谷共名け、又馳籠の谷共申なれ。三十人計の白装束と見えけるは、垣生新八幡の御計にやと、後にぞ思ひ合せける。
木曾は平家追落し、黒坂の峠に弓杖突、除甲に成て控へたり。平家馳重て亡たる、倶梨伽羅が谷を見れば、火焔俄に燃上る。木曾大に驚て使を遣して是を見るに、御神寶立て、金剣宮と顕たり。使者帰て角と申せば、誠に願書の験にやと、感涙押へ難して馬より下、三度拝して宣けるは、今度の軍全義仲が力に非ず、偏に白山権現の御計にて平家は亡びにけり。後も亦憑もしくこそ御悦申べしとて、鞍置馬二十匹に手綱打懸々々、金剣宮へぞ送られける。其上猶霊験を貴で、林六郎光明が所願、
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横江庄をぞ寄られける。金剣宮と申は、白山七社の内、妙理権現の第一の王子に御座。本地は倶梨伽羅不動明王也。守(二)国土(一)為(レ)降(二)魔民(一)とて、弘仁十四年に此砌に跡を垂。平家已に佛法王法の怨敵也ければ、神明合(レ)力給へりと云事掲焉也。
十郎蔵人行家は、志雄の軍負色に見えければ、越中前司盛俊勝に乗て攻戦ふ程に、木曾礪並山を打破り、四萬餘騎を引率して志雄へ向と聞えければ、追手破れなん上は力なしとて、盛俊此より引返す。平家は礪並山を落されて、加賀国宮腰佐良嶽の濱に陣を取、旗(有朋下P127)を上よとて佐良嶽山に赤旗少々指上たり。谷々に被(二)討残(一)たる兵共、五騎六騎十騎二十騎馳集り、盛俊も軍兵引率して参たれば、程なく大勢に成にけり。源氏は左右なく追懸ず、押違へて陸地に懸りて、加賀国平岳野の、木立林に陣を取て白旗を挙たり。源平両陣に白旗赤旗立たれ共、霞を阻て遙也。五月二十五日の事也。源平互に馬に草飼、兵粮つかひなんどして有ける程に、源氏の草刈をば平家搦捕、平家の草刈をば源氏搦捕、互に軍の僉議を問けり。平家は源氏の草刈三人搦捕て軍の謀を問。下揩ネれ共相撲は我方とて、跡形なき事共申して、平家を威して申けるは、源氏は夜に入て寄らるべきとて、内々はひしめかれ候つる也と申。やをれ加程に雨降風吹て、闇き夜半には、如何にとして寄べきぞ、謀をば何と構たるぞと問ければ、あの東に見え候森を木立林と申、中に一の板堂あり、彼を壊てなんば平足駄と云物に造て、続松を拵へ、直路に懸りて、押寄て、夜討にせんとこそひしめき侍つれ、加様に雨風の事をば如何せんと申人
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も候つるを、夜討と云は思懸なき時こそよけれ、敵の存じたらんはゆゝしき大事也、是は然べき折節なんど評定候つる也、御用心有べきにて候と云。平家此事を聞て騒あへり。三位中将仰けるは、成合の手にかゝりて、安宅の渡の橋を引て、閑に源氏を待べかりつる者をと宣へば、侍共(有朋下P128)心弱く思て、我先々々にと、藤塚、今湊、安宅を指てぞ落行ける。係ければ三位中将も落給ひにけり。五月廿五日の夜半也、さらぬだに五月の空はいぶせきに、降雨は車軸の如く、吹風は濱の沙を挙て、岸打波に驚ては敵の寄るかと疑はれ、松吹風を聞ては時の声かと■(あやま)たる。甲冑もしをれつゝ、駒に任て行程に、小川大行事の洪水に、先陣流るれども後陣不(レ)扶(レ)之、後陣沈め共先陣不(レ)顧(レ)之、弱馬疲たる人なれば、其夜の中に一千餘騎、水に溺れて失にけり。無慙と云も疎也。明れば二十六日、安宅の湊に著集る。橋引掻楯をかき陣を取。爰にて日数を経る間に、或は水に流れたる兄弟、或は敵に討れたる一族、永き別を歎きつゝ、悲の涙を流しける。
S2908 平家落上所々軍事
六月一日は、源氏倶梨伽羅志雄山、追手搦手の大将軍一に成、五萬餘騎引具して安宅の渡に押寄たり。平家橋を引たり、水は濁て底見えず。源氏も左右なく不(レ)渡して、北の耳に引へたり。越中国住人、石黒、宮崎申けるは、我等先に城構て待し時は、平家は渚をこそ渡て候しかば、以(二)案内者(一)渚の瀬踏をして御覧候へかしと申ければ、木曾は加賀国住人林(有朋下P129)六郎を召て、汝は当国住人也、河の案内知たるらん、瀬歩仕れと仰ける。光明仰承て、能馬十匹汰へ、手綱結懸て追入たり。鞍爪力革を
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ば過ざりけり。木曾、河は浅かりけり。渡せ者共者共と下知しければ、信濃には、今井、樋口、楯、根井、宇野、望月、諏方上下、越中には、石黒、宮崎、向田、水巻、南保、高楯、福田、賀茂島等、加賀国には、林、富樫、下田、倉光等五百餘騎、曳音出して打浸々々さと渡し、南の陸に引へたり。瀬踏の馬共、平家の陣に馳入たりければ、源氏が落るやらん、鞍置馬共迷ひ来れり、我取てのらん/\と面々に追歩。畠山庄司重能、小山田別当有重申けるは、是は落人の馬には非ず、河の瀬蹈の馬なるべし、敵は既に近付たるにこそ、重能有重見て参らんとて、兄弟二人、三百餘騎を引具して、安宅港に進處に、如(レ)案河の南のはたに兵多く引へたり。畠山は平家へ使者を立、源氏は已に湊を渡して候、先陣は重能仕候べし、若き人々に軍よくせよと仰べしとぞ申ける。木曾樋口を召て、爰に赤旗三流四流指上たるは、誰なるらんと問へば、此は武蔵の畠山と覚候と申。何として見知たるぞと問へば、兼光は武蔵へ時々越候し間、畠山の旗をば見知て候と申。此勢何程有らんと問。三百騎は候らんと。木曾宣けるは、東国には畠山こそ棟人の者よ、高見王より八代後胤、村岡五郎重門(有朋下P130)より四代孫、能敵ぞ、是は馳合の軍なるべし、敵も御方も一手々々押寄せ/\戦べし。先畠山には兼光、先陣仕れと下知すれば、承候ぬとて、一番樋口次郎兼光百五十騎、元来約束の事也、平家の二人源氏の一人を宛たれば、畠山が三百騎に、樋口が百五十騎を相具して、押寄たり。畠山は軍構ぞしたりける。鶴翼の軍とて鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立廣て、小勢を中に取籠る支度也。樋口は魚鱗の
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戦とて、先細に中太に、魚の鱗を並たる様に、馬の鼻を立並ぶ。畠山が三百騎、樋口が百五十騎をくるりと巻籠たれば、兼光が小勢、重能が大勢を、さと打破て出、出れば巻れ、巻ては出ぬ、籠ては散ぬ、散ては籠ぬ、討つ討れぬ、五六度までこそ戦けれ。畠山が勢二百騎討れて、百騎に成ぬ。樋口が勢百騎討れて、五十騎になる。其後両方さと引。
二番上総守忠清、五百騎にて推寄たり。今井四郎兼平、二百五十騎にて出合たり。寄つ返つ、追つ追れつ、暫戦て引退。
三番飛騨守景家、千騎にて向たり。楯六郎親忠、五百騎にて寄合す。弓矢を以て勝負する者もあり、太刀打して死する者も有、引組で腰の刀にて亡も在、暫戦て両方さと引退。
四番越中前司盛俊、二千餘騎にて蒐出たり。落合五郎兼行、千餘騎にて寄懸たり。或百騎或十騎入組入組、集ては散、散ては集り、一時戦て引退。
五番越中次郎兵衛盛嗣、上総(有朋下P131)五郎兵衛尉忠光、二千騎にて進出でたり。水巻、石黒、林、富樫、佐見、一門、千騎にて、寄合す。懸れば引、引ては懸、射も有、伐も在、退も有、進も在、組組れぬ、互に命も惜まず身も資けず、是を最後と戦て引退。
六番飛騨太郎左衛門景高、五百騎にて懸出たり。信濃国住人、根井小弥太行近、二百五十騎にて押合す。互に追つ返つ、五六度まで戦けるに、景高が勢、三百騎討れて二百騎になる。行近が勢百騎に
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なる。猶退かず戦に、景高が勢百騎になり、行近が勢五十騎に成。猶不(レ)退戦けり。景高が勢十五騎に成、行近が勢七騎に成。源平目を澄してぞ見たりける。尚不(レ)退死生不(レ)知に戦けるが、後には行近景高只二人にぞ成にける。行近十四束を取番ひ、能引て放ける矢に、景高が馬の腹射させて駻落さる。行近馬より飛下て、太刀を抜て打て懸る。景高大音揚て云けるは、骨をば苔の下に埋共、名をば後代に傳ぬべし、人なよせそ、勝負は二人と云ければ、行近子細なきとて切合たり。両人は好處なれば、源平人をば不(レ)寄けり。打と切ばはたと合せ、はたと切れば丁と合す。一時が程戦けるに、景高脛巾金より太刀打折て白砂に落。行近云けるは、爰を切べき事なれ共、互に組で勝負也とて、太刀を捨てぞ組だりける。根井は四十計の男也。景高は二十五也。上に成下になり、弓手へころび、妻手へころぶ。根井(有朋下P132)終に上に成、景高を押へて切られにけり。敵も味方も惜みつゝ、各涙を流しけり。七番権亮三位中将維盛已下、宗徒の大将一味同心に三萬餘騎馳出たり。木曾亦轡並て押合て、互に指詰々々射るも在、馳合々々切るも在、馬は足を休る時もなく、人は手から助くる隙を失へり。角て安宅の城にて、暫し支て戦けれ共、平家負軍に成ければ引て落。源氏勝に乗て続て追。長並、一松、成合までぞ責付たる。自先立者こそ助りけれ共、返合る者の遁はなし。成合にて平家返合て暫し戦、両陣乱合て、白旗赤旗相交、天に翻る事夥し。馬〔の〕馳違音、矢叫の声、雲も響地も動らんと覚えたり。蹴立のほこり空に充満て、朝霧の立が如く也。
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S2909 俣野五郎並長綱亡事
平家の陣より武者一人進出て云けるは、去治承の比、石橋にして右兵衛佐殿と合戦したりし鎌倉権五郎景正が末葉、大場三郎景親が舎弟、俣野五郎景尚と名乗て、竪ざま横ざま、敵も不(レ)嫌散々に戦けり。木曾は恥ある敵ぞ、あますなと云ければ、我も/\と蒐籠たり。景尚向者共十三騎討捕て、痛手負ければ、馬より飛下、腹掻切て臥にけり。
平家(有朋下P133)の侍に高橋判官長綱は、練色の魚綾の直垂に、黒糸威の鎧著て鹿毛なる馬に乗、只一騎返合て、成合池の北渚に、馬の頭、濱の方に打向て引へたり。可(レ)然者あらば、押並て組ばやとぞ伺ひ見ける。源氏の方に越中国住人、宮崎太郎が嫡子、入善小太郎安家は、赤革威の鎧に、白星の甲著て、糟毛なる馬に金覆輪の鞍置て、只一騎引へたり。是も平家の方に可(レ)然者あらば、押並て組んとの志也。成合の池の北渚に、武者の一騎あるを心にくく思ひて打寄て、爰にましますは敵か御方か誰と問。平家の侍に高橋判官長綱、角云は誰。越中国住人入善小太郎安家、生年十七歳と名乗もはてず、押並て組で落、始は上に成下になりころびけれ共、流石安家は二十に足ぬ若武者也、高橋は老すげたる大力也ければ、終には入善下に成を、おさへて頸をかゝんとする處に、高橋腰の刀を落したりける。為方なくして、暫し押へて踉■(をどりゆ)けり。此に入善が伯父に、南保次郎家隆と云者あり。此軍に打立ける時、入善が父宮崎太郎、弟の南保に語けるは、安家は未幼弱なる上、今度は初たる軍也、相構て見捨給なと云ければ、然べしとて出たりけるが、相具せんとて数萬騎が中を尋れ共見えず。南保音を揚て、入善
P0714
小太郎/\と呼で、両陣の中を通けるに、小音にて、安家敵にくみたり、角尋給ふは南保殿かよと云。家隆馬より飛下て腰刀(有朋下P134)を抜、長綱が鎧の草摺引上て、柄も拳もとほれ/\と二刀刺、甲のてへんに手を入て引仰て切(レ)頸、左の手には持(レ)頸、右の手にて入善を引上て、如何誤ありや、軍は後陣を憑み、乗替郎等を相待てこそ、敵には組事なるに、若者一人立■(あやまり)し給はんとて、去ながら神妙々々と云處に、入善隙を伺、南保が持たる首を奪取て逃走、木曾が前に行向ふ。南保も続て馳参申けるは、長綱が首をば、家隆捕たりと申。入善は我取たりと論ず。南保重て申けるは、入善高橋に組で既危候つるを、家隆落合て、入善を助けて、高橋が頸をば取たりと申。入善陳じ申けるは、安家高橋に組で、上に成下に成候つる程に、高橋が弱處を、高名がほに南保傍より取て候、家隆全く不(レ)取、安家が今日の得分にて候つる者也と申ければ、木曾は、入善くむ事なくば南保頸を不(レ)可(レ)捕、落合事なくば、入善實に難(レ)遁、両方共に神妙也とて、高橋が頸をば南保に付、入善には別の勲功を行はる。
S2910 妹尾並斉明被(レ)虜事
源氏方より、加賀国住人、倉光三郎成澄、二十餘騎にて攻懸たり。平家の方より備中国住人妹尾太郎兼康、是も廿餘騎にてをめきて出。妹尾、倉光馳並て組で落。是も上に成下(有朋下P135)に成、持起しつ押付つ、互に勝負不(レ)見けるに、妹尾が郎等落あはんと進む處に、倉光が郎等主を討せじとて、命を捨て懸ければ、蒐立られて落る處に、兼康は倉光に虜れにけり。平泉寺の長吏斉明は、随分平家に忠を盡し、燧城を落したりけるが、殊に気色して今日を晴と出立
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つゝ、門徒の悪僧相具して、五騎にて傍若無人に馳出たり。木曾云けるは、自餘の兵は逃ば逃す共、斉明あますな若者共、同は生捕にせよ若者共と、下知しければ、岡本次郎成時、是も主従五騎にて歩せ出して、郎等共に、山寺法師思ふにさこそあらんずらめ、斉明は我得分ぞ目をかくな、四騎の武者を打拂へと云ければ、四人の郎等、四人の法師武者を追拂ふ。其間に斉明と成時と、押並て組て落。兎角操り本意に任て、斉明をこそ生取けれ。(有朋下P136)(有朋下P137)
義経記及び源平盛衰記は平家物語協会さんから引用のお許しをいただいて掲載しました
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