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屋島の合戦
源義経の部屋フロントページ
源氏に関するホームページはたくさんあるので、ここでは四国が舞台となった
源氏の話をその前後のいきさつも含めて書いてみます。まずは屋島の合戦に至るまで
の話しです。
一ノ谷の合戦後、源範頼は寿永三年八月七日一千余騎の軍勢を率いて、
鎌倉を出発し途中から参加する地方の豪族をも集めて西進。
八月末に京都に入ります。そして平氏追討の院宣を受けて
九月一日に出京して、山陽道をさらに西進します、
その顔ぶれは、和田義盛 三浦義澄 三浦義村 北条義時 中利義兼
武田有義 千葉常胤 境常秀 八田知家 八田朝重 葛西清重
長沼宗政 結城朝光 比企能員 安西景益 大河広行 中条家長
工藤祐経 天野遠景 小野寺道綱 一品房昌寛 土佐房昌俊
らで、いずれも一騎当千の強者の武将でした。
いずれは九州まで押し渡り、平家を陸上から完全に追放する
狙いですが、戦況は芳しくはありませんでした。
十月の半ば頃には範頼は安芸の国に居て十一月から十二月にかけて
長門の国に進撃しますが、瀬戸内海の制海権が平家にありましたから
予想以上に食糧等の輸送が妨害されて、いよいよ進撃が困難になりました、
さらに九州からの食糧等も、関門海峡を押さえている平知盛の軍に阻まれて
まったくどうしようもなくなりました。しかもその間に平氏の軍は各所の輸送路の
遮断につとめたり、山陽道の要地を占領して源氏軍の退路をも断つという手を
打ってきました、「その時の様子を吾妻鏡では 兵糧欠乏の間、軍士ら一揆
せず、おのおの本国を恋い過半は逃れ帰らんとす」「参州、九州に赴かんと
すれど、船なくして進まず、たまたま長門の国に渡るといへどもろう儘くる間
、また周防国に引き退きおわんぬ、軍士らようやく変意あり、一揆せず」
というように書いてあります。
武辺を以てなる、我がご先祖の和田義盛でさえ戦意を失って密かに
鎌倉に帰ろうとした・・・・・らしいです。
そののちも少しは戦況も好転したりしますが決定的な戦果にはいたらずに
満足な補給もなく飢餓に苦しめられ、このまま持久戦になれば
自滅のおそれもあり、諸将は焦燥にかられ、ここに源氏軍は敗北の直前
にありました、そこで範頼は鎌倉に使いを送り「平家追討の計を巡らし海を
渡って 豊後に入り込んできたが、この地は凶作で兵糧が欠乏、安芸に退きたいが
乗る船もなく困窮いたし攻撃の際にあらず」と・・・そこへ頼朝の返事が・・・
「何を泣き言を申しておる。九州を攻められぬとあれば四国に渡って平家と合戦
すべきではないか、それをいまさら合戦もせず朝廷に対して面目なし、辛抱して
闘志をかきたてよ、お前は追討使ではないのか、勇気を持って事に当たれ」
・・・との書状が届きました。
範頼は今更軍を返すわけにもいかなくなり進退窮まりました。
そんなことを頼朝の妻の政子が知るところとなり、ある日頼朝に
九郎を西国攻めに起用なさいませ、と進言し口では頼朝も儂に逆らって
宮中のいいなりになっている九郎を信用せよと申すのかと返したが、
政子の父北条義時も、いつも今、合戦をやらせれば源氏のなかで
九郎義経の右にでるものはいないと言っていたこともあり、頼朝の心の中では
もはや義経の起用以外には打つ手はあるまいと思っていました。
そしてそうこうしているうちに、京都の義経のもとにも兄の範頼からの窮状の
知らせが届きました、義経はこのままでは範頼の大軍は為すすべもなく
九州と四国の平家の軍に挟み討ちにならないともかぎらないとの危険
おぼえ、一族郎党をたて、熊野の湛増に急使を送り軍用船の用意をさせ
寿永四年一月五日、義経は自ら頼朝に平家追討を願い出て、その足で
院の御所に伺って平家追討の院宣を受けました。
そして、一月二十日に頼朝から正式に追討軍司令官の命を受けました。
これから義経軍率いる屋島の合戦の話しに入りますが
それは次回ということで・・・
それからもちろん義経は、一武将として一ノ谷でも範頼の軍で平家とは戦っています、
「有名な鵯越の「ひよどりごえ」の逆落としがそうです」
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