無料-
出会い-
花-
キャッシング
悪源太義平
フロントページ
西国に基盤を持つ平氏の勢力が増大し、源家の衰退を八幡太郎義家の孫 源為義は
愁い必死の挽回を謀っていました、なかでも嫡男義朝は、東国における源氏惣領家の
勢威を回復するために積極的に乗り出していきました、義朝は鎌倉の館や鎌倉郡
沼浜に拠って、勢力回復に努めましたが、それを終始支えたのが三浦一族であり、
その棟梁である為継の子の義継、孫の義明でした。
義朝は「上総の御曹司」といわれ、三浦氏も12世紀には対岸の房総にもその勢力を
広げており、地縁的にも義朝とのつながりは強い物がありました。
義朝は三浦義明の娘を妻として、やがて永治元年「1141」嫡男義平が生まれます。
後の鎌倉悪源太義平です。
と、これは平治物語の一節に「義朝の嫡子鎌倉の悪源太義平は、母方の祖父三浦の許に
在りけるが、都に騒事ありと聞きて、鞭を打て馳せ上りける」とあり、また「続群書類従」
系図部に載せられた「清和源氏系図」の義平の注記にも「母、三浦大介義明 女」と
あります。
しかし、「尊卑分脈」や「系図纂要」は義平の母を「橋本遊女」としていますし、
また三浦関係の系図のなかにも、義朝に嫁した娘の記載はありません。・・・が
悪源太義平が三浦一族の庇護を受けていたことは事実記録がありますし、また三浦館に
住んでいたと思われる記録もあります、そして三浦大介義明と義朝との濃密な関係を
考えると、そして義平の母が遊女であるというのは、義平の母が三浦の娘であれば
当然、義平が嫡子「惣領」としての扱いを受けるはずなのに、実際は熱田大宮司の
娘を母に持つ頼朝が生まれながらにして嫡子として扱われていることからも言われて
いますが、三浦一族の義平に対する忠義心ともいえる協力ぶり、三浦の血を引くもので
あったが故の三浦一族の後ろ盾であったはずです。
義平はその後、父の義朝が上洛したのちも東国にのこり、母の実家 三浦氏を後ろ盾とし
三浦のもとで活躍しました、久寿2年「1155」義平は叔父の帯刀先生源義賢を武蔵国
比企郡の大蔵館で討ちました、この時義平は15才でした。「この時義明の次男の荒次郎
義澄も三浦党を率いて参加しています。「この時、討たれた義賢の子供が駒王丸、後の
木曽義仲です、この時は駒王丸は味方する物の手によって木曽の中原兼遠の元に
母の小枝御前と一緒に逃がされています。」
「この大蔵館急襲は義朝と義賢の惣領権のあらそいですが、「義賢にはそのつもりは
なかったのでしょうが」もうひとつ、秩父党の惣領権の争いとまた、秩父党体三浦党の
争いでもありました。」
このときの武勇は関東一円に鳴り響き、以後、鎌倉悪源太義平と呼ばれるようになります。
この鎌倉悪源太の鎌倉は鎌倉の三浦氏のところに居る、そして悪源太はとても強い源氏の
太郎「長男」という意味で、悪はけっして叔父殺しをした悪人の悪ではありません、その当時
名前に悪がつくのは強いということです。
保元・平治の乱の時の逸話に鎮西八郎為朝が一人で守る白河殿の二条河原門に、
平清盛が押し寄せました、しかし鎮西八郎の名乗りを聞いて「すさまじき者の固めたる
門へ寄せあたりたるものかな」とすっかり怖じ気づいてしまい、そして「必ずしもこの門へ
向かえという宣旨を蒙りたることもなし。ただ暗まぎれに寄りあたりたるにてこそあれ。
さらば、余の門へや向かうべき。」と清盛軍が退却しようとしたときに嫡男重盛はそれでは
平家の名折れになると、ただ一騎かけだそうとして、制止されやっとのことで踏みとどまり
ましたが、そのような重盛でさえも、平治の乱で義平と遭遇一騎打ちとなった時、
悪源太義平の名乗りを聞き、怖じ気づいたといいます。
これはについては、「六波羅、皇居になりぬ。志おもいまいらせたまわむ人々、参るべし」
前関白忠通・元関白基実以下の公卿・殿上人、東西より馳せ参じた武士どもは、
みなわれもわれもと、六波羅に集まりました。うつけものの信頼はこのことをまったく知
りませんでした。
悪源太義平がこのことを聞き、義朝に知らせました。「源氏の習い、心変わりあるべからず
」義朝は、決戦の命を下しました、衆徒の兵200人、軍兵は2000騎でした。
大将義朝は全軍を前に言いました。「この勢いで攻めて勝てないことはない。
万一負けても東国へ下り、大勢を催し、後日、都に打ち入り、平家を滅し、源氏の天下に
する事、何の疑いもない」と。
しかし、保元の乱のことを知っている一門の頼政達は、批判的でした。「保元の乱の
時に、為義入道がそう言ったのに、運つきて実行しかねて、その父を義朝は斬っている
平治の今、この大将ではどうなることか」と。
義朝もそれを察して、みな討とうかと思いましたが、平家を前にしての同士討ちは良くない
と思い返して、その時は控えました。
左衛門佐重盛は「年号は平治也、花の都は平安京、我らは平家也。三事相応して、こんど
の軍に勝たんこと、何の疑いかあるべき」と、3000余騎を三手に分けて進みました。
平家3000の兵がどっとあげる鬨の声に、守りの大将信頼はさっと顔色を変え、階を降りる
膝はふるえていました。馬に乗ろうとしても、御しかねて乗れず、人に押し上げられて
やっと乗った途端、どうっと落馬、顔にはべったり砂が付き、鼻血が流れていました。
「あの信頼という不覚仁は、臆したるな」義朝は憎々しげに、そう言いました。
そして、左衛門佐重盛23才 悪源太義平19才。源氏と平家の御曹司、源平の
名誉をかけての一騎打ちとなりました。左近の桜、右近の橘、5度、6度、7度と
駆けめぐり、10度近く乗り回して戦いましたが、勝負が付きませんでした。
内裏方では、いったん兵を六波羅に引き上げさせました、計略でした。
義朝勢はそれを追撃します。大内は留守になります、平家軍はすかさず大内に入って
門をみな固めたから、攻守逆転です。内裏へ戻ることのできなくなった源氏は、六波羅へ
押し寄せました。このときには源氏でも頼政らはもう心変わりしていました。平家と戦う
前に源氏同士の戦になってしまったのです。源氏軍の敗色は濃厚になってきました。
悪源太義平を先頭に、源氏はついに六波羅の門を破って乱入し、清盛もまた自ら
陣頭に立つ白兵戦になりました。しかし、平家は新手です。さすがの悪源太率いる
源氏軍も消耗が激しく、ついに兵を引いて六条河原の西に馬を立てました。
これで勝負はあったのです。
「義平が、河より西へ引きつること、家の傷とおぼゆるぞ。義朝、今はいつをか期すべき
討ち死にせん。」義朝はそう言って駆け出そうとしたのです。六波羅門内まで攻め入り
敵将と渡り合って、これを倒せなかったとすれば、これは敗戦というよりほかはない。
と言うことです。しかし、鎌田正清ようようなだめて、ひとまず都を落ち、東国に下って
再挙をはかることにしました。
そして義朝・義平勢はわずか八騎で横河法師2・300人の来襲をも蹴散らして東国
へと下っていきましたが、途中13才の頼朝は馬上居眠りして落伍してしまいました。
義朝は、義平を越前に、朝長を甲斐、信濃に下し三手に分かれて再起を図ろうとしましたが
朝長は重傷でしたので、人手にかけるよりはと、義朝自らこれを成敗しました。
「これには異説として朝長は、義朝の命により信濃に落ち、信濃・甲斐の兵をまとめて
再起を期すため出発したものの、乱で受けた傷が悪化して、前途を悲観して、義朝の許に
引き返してきたのを激怒した義朝に斬られてしまいました。・・・まぁ、本当は・・・こっちの方
ですけどね」
「そのまえに義朝の姫は連れていく事叶わずとして鎌田正清を差し向け、害しています
、姫もまた自らそれを望みました」
そしてそれから、義平はいずこともなく落ちていきました。
「これも異説として、義朝の命により北陸に落ちていく途中、やはり清盛は自分の手で
討ち取ろうと都に引き返し、密かに狙っていたのが平家に発見されて六条河原にて斬首
というもので、これもおそらく、義朝の敵として都に潜入したのではなくて、こちらの
話しがほんとうでしょう、義平はたとえ義朝が討たれても敵を・・・とは考えませんから、
義朝か義平の敵「てき」に回ればなんのためらいもなく討てる、そんな人ですから。」
尾張国に着いた義朝は、長田庄司忠致を頼りました、長田は相伝の家人の上、鎌田正清
の舅に当たる人です。しかし、その長田も心変わりしていました。子の景致と示し合わせて
義朝を湯殿で謀殺しました。平治2年1月3日、38才の源氏の大将は
「義朝ただ今討たるるぞ。」の言葉とともに最期を遂げました。
その長田は、義朝と鎌田の首を持って都に上がり、平家に見参しました。
神妙だというので、忠致は壱岐守、景致は左衛門尉に任じられました。
長田は義朝の所領全部か少なくとも尾張国は貰うつもりでしたから、不平を訴えると
清盛は一喝して、「本来ならばお前は罪人である。出世のためとは言え、相伝の主と
現在の婿を殺す者があるか。けれども朝敵を討ったのだから、一国はやったのだ、
それがいやなら、やむを得ぬ。」とみな取り上げてしまいました。重盛は見せしめのために
のこぎり刑にするとまでいいました。長田は面目を失って本国へ逃げ帰りました。
「源氏の天下になったら、長田はどうなるか、その最期を見たいものだ」
人々はそう言って長田を憎みました。
そして、悪源太義平は、父義朝が殺されたと聞き、都に潜入して平家を狙いましたが、
ついに捕らえられて獄門にかけられました。
父義朝とはぐれた頼朝は、不破関の近くの奥波賀に忍んでいるところを、三河守頼盛が
尾張国を拝領、部下の弥平兵衛宗清が目代で下る途中聞き出し、捕らえて都に上らせ
ました。しかし、都に上らせた頼朝の所行があまりに神妙だったので、ついに一命を
助けられ、伊豆国に流罪になります。居盛は最後まで反対しましたが、継母の池禅尼が
強く助命を請い、重盛までその歎願に回ったので、さすがの清盛もどうすることもでき
ませんでした。・・・・・と、これは平家側からの批評です、しかし、その当時の世評は
頼朝にかなり辛辣でした。「14にもなり、父と一緒に死ぬべきものが、ましてや、兄弟
が源氏の為に戦い死んでいき、姫さえもみずから望んで命を絶っているのに
敵方の老女に頼って生き延びるとはなんという料簡だ」と。
また、「頼朝は、何としても平家を滅ぼそうという下心で、生き延びようとしたのだ。
なんともおそろしい子供だ」・・・とも。
世の中の人は頼朝が心の底から殊勝な心がけの人だから助けられたとは思っていま
せんでした。上手に立ち回って、老婆を籠絡して自分で自分の命を繋いだと判断して
いたのです。
このことにはもちろん異論があるとは思いますが、当時の文献にこのような記録が
残っているのも事実ですが、しかし、結果として頼朝が命を繋いだおかげでたとえ世間に
なんと思われようとも、源氏再興がかなったわけでもありますが。
[PR]動画